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トリーカ昔物語

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2006. 2. 21 高田

第1話  「ただ今トリーカ45歳」

「ただ今トリーカ45歳」 

トリーカは、平成18年(2006)3月末日を以って第46期を終えます。
人間で言えば“かぞえ歳”で46歳を過ぎるのと同じですね。
昭和36年(1961年)4月19日が会社設立日ですから、実際は満45歳かな。
それにしても結構息の長い会社の年齢になります。
一般的に「会社の寿命は30年」と言われ、それを過ぎると“老舗”(しにせ)と言われるらしいですよ。トリーカも老舗と言われるのかな?・・・。
立派に生きている会社でも、設立から30年も経てば、時代背景が変わり会社が行うビジネス自体が時代に合わなくなったり、経営者の世代交代等があり、設立の時の思いや、目的、覚悟や理念等が忘れられたり色々な理由で生命力が弱り、やがて消えることが多いのです。
人間でも会社でも誕生して3年、5年、10年、20年とかの節目があります。
だから生き延びた企業は創業10周年や、20年、30年、のお祝いをしますね。
トリーカもお祝いして来たし、今日まで45年間ともかく生きてきました。
その事実は立派なものです!。
この45年間、トリーカを支えてくれた先輩達に感謝しながら、私達はこれから迎える50年周年や100周年に向けて会社を引継いで行かなければならないのです。

会社は人間の一生の様でもあり、駅伝競走のゲームの様でもあります。
次々とたすきを渡して走る駅伝競争。現在たすきを持っているのが私達ですね。
そしてトリーカは漁船の船団だとも言われてきました。
縫製と言う魚を釣って生きてきた工場が「トリーカ漁船」です。
沢山の社員、方々に散在する工場、それら全体で「トリーカ船団」と言うことですね。

そのトリーカも45年前は、影も形も何もありませんでした。
それが現在のトリーカ船団の姿と言えば、社員は日本人が800人、中国人の研修生、実習生達が約300人、工場も11事業所、社内ベンチャー的子会社が26社もあります。
会社の財産もゼロから発足し、途中借金してマイナスの時期が続きましが、最近ようやく正味財産が帳簿上ですが○億円位?になりました。
もちろん現金で在るのではなくて、工場や機械や材料などの姿になって在るのです。
たくさん有るようですが、もし仕事がダメになって、全て売り払ってお金に替えたなら、数億円にもならないかも知れません。
そしてそれを社員に支払えば恐らく2~3ヶ月分程度の給与分しかならないでしょう。
やはり縫製工場としての建物やミシン設備の財産は売らないで生かして使うと値打ちがありますね。

トリーカの社員は過去45年間毎日働いて自分達の給与を稼いできました。
つまりトリーカはご当地工場として、「たくさんの人に職場を提供した」と言う点で、目立たないが立派な役目を果たし、地域に貢献していると思います。
もちろん全社全工場の皆さんが、毎日毎日生産活動を続けて産み出した年間約1000万枚もの製品は店頭にならび、毎年1000万人もの女性に愛用されているのです。

これはつまり、広く社会が認め、その社会にトリーカが貢献している事ですね。
だから、トリーカのみなさんが45年間会社を守って健全に継続している実績は大変価値のあるものですよ。
自慢はしないほうが良いかもしれませんが、自信は持っても良いでしょう!

1000人の職場としてこれからも大切に生かし続けたいものですね。

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2006. 2. 22 高田

第2話  「トリーカ昔物語」

「トリーカ昔むかし物語」 

トリーカの設立は1961年4月だから、思い返せば本当に長い歴史を刻んだこととなりますね。
最近入社した人や、若い方も、ほとんどの社員が、当然の事ながら以前のことは
ほとんど判りませんね。
立派な会社では、例えばワコール50年史などが手間とお金をかけて作ってあります。
トリーカには印刷された年史はありませんが、だからと言って経過や歴史が無いわけではありません。
「過去は記憶の中に在る」のです。
つまり、その時々の社員の記憶の中に、さまざまな記憶として歴史があるのです。
その人その人でトリーカで過ごした歴史があり、その見方も感じ方も違います。
恐らく今までにトリーカ全体では一万人を越す人達がトリーカに所属された事でしょう。
だからそれだけの人が語る「一万通りのトリーカの歴史」があることになります。
だから歴史を語るのは難しいな~と考えるのです。
なかなか公平に正しく真実が言えないし、一人の人間に全てが見えている事ではありません。
だから自分は真実だと思っていても、それは一万分の一部分であるし、別の見方からすれば、それは間違っているのかもしれません。
それでもトリーカに45年の歴史があって今日があります。
若い社員は知っておくべきだし、先輩は伝えておくべきだろうと思う次第ですね。

そこで、あまり固く考えずに、ただいま「相談役の高田」が「思いつくままに」トリーカの思い出を語りたいと思います。
見方が一方的であったり、間違いもあると思いますが許していただきたいし、気付いた方は修正して頂きたい。そしてみんなで作り上げれば良いと思うのです。
あまり系統だって書かずに、気の向くままにワープロを打って、後日整理すればそれで良いでしょう。その点ワープロと言う機械は本当に便利ですね。

また、歴史は当然誰かが動かしています。
だから知る限り細かく人の名前を入れたいところですが、上記の理由で残念ながら私の一方的な目から全てを語ることは出来ません。
Aさんを話してもBさんが漏れる恐れがあります。そうなるとまずいですね。
だから創業期の主要な先輩以外はなるべく人の名は入れない文章にしようと思うのです。
人名が少ないと言うことは、ややぼやけた無責任なものになりますが、それはそれで「そう言うお話だ」と言う事にさせて頂きたいと願う次第です。
ともかくこれからお話するのは営業職で、主にワコール担当をやっていた者の立場から見た「高田版トリーカ物語」であり、極力公平に書こうと意識する事で全てをお許し願いたいのです。
また、昔々こんな事がありました~と言う「トリーカむかし物語」になると思います。
最初の最初、創業時点を詳しく語りたいのですが、これは先輩から聞いた話の受け売りになります。
私自身はだいたい昭和37~8年(1962~3年)以降がイメージとして残っています。
そして今に繋がる色々な事柄のそもそもの始まり~「初めものがたり」的なお話を中心にお話していきたいと思います。

出来るだけ沢山の社員の皆さんに読んで戴きたいし、読まれた方で間違いに気づかれたり、疑問に思う部分や、もっと詳しく書けと言うようなご意見など何でも言って戴くとあり難いですね。
どうぞお気軽に電話やFAX、無記名のものでも良いし、メールを戴いても結構です。
ちなみに私のメールアドレスは t-takata@torica-inc.co.jp です。
会社の仕事用の名刺に入れているアドレスですが、ご家庭のパソコンからでも発信できますから、どうぞ活用戴きたいと思います。
個人的なご返事は別として、その後の原稿を書く時取り入れたり参考に致します。

では記憶を探りながら1日1話~トリーカ今昔物語と参りましょう!

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2006. 2. 27 高田

第3話  「トリーカ発祥の地」

「トリーカは何処で生れたのか?~発祥の地」について 

当初トリーカは、「鳥取西村メリヤス株式会社」という社名で発足しました。
「西村メリヤス株式会社」という大阪に古い大きなニット専門の染色会社が在って、その会社の子会社として生まれた縫製会社なのです。
最近市町村の合併が行われ、市が誕生したり、周辺が○○市に編入されたりしています。
トリーカの生まれた昭和36年当時も町村合併を促進していた時期で、その結果、戦後15年を経過した地域の小学校などが統合され新しく大きい学校が建設されていました。
当然古い校舎が空家になります。
その空き校舎を利用して地元に企業を誘致したいと鳥取県や名和町が運動し、西村メリヤスに誘いが来たようです。
当時地方には農林漁業以外の産業が少なく、特に女性は道路工事の手伝い程度しか仕事がなかったので、縫製工場は女性の職場として大歓迎されたようです。
「産業誘致」や「誘致工場」という言葉がもてはやされた時代ですね。
当初名和町において30名募集すると、150人もの応募があったということでした。
当時は女性の職場進出が話題となり、若い人からやがて家庭の主婦も働き始める時期だったらしいのです。
まして女性用の下着工場はめずらしく、騒がれたことでしょう。

ともかく優秀な女性ばかり採用して、わが「トリーカの第一歩」は、本社を鳥取県西伯郡名和町に置き「鳥取西村メリヤス株式会社」として発足したのです。
昭和36年のまだ寒さの残る春だったでしょう。
場所は現在の名和町役場の裏手に名和小学校の建物が残されていたので、そこを買い取り最初の工場であり本社所在地になったのです。
(平成18年の合併で名和町は大山町になりました。だから今では大山町名和ですが、この物語では名和町でお話しします)
その頃は今の国道9号線が無くて今の役場もありません。
旧市街というか名和町の古い町並みが当時の国道9号線をはさんでならび、そこから石段を少し登ったところに小学校があったのです。
名和町は裏手?に日本海が広がり小さな港になっています。
その昔、隠岐の島に流された後醍醐天皇が島を脱出し再び本土に上陸したのが名和の港であり、だから地名は御来屋(みくりや)と言う、由緒ある土地ですね。
土地の豪族が「名和長年」と名乗り後醍醐天皇をお守りし、戦前の小学校教科書に忠義の人として載ったそうですが、私も戦後の小学生ですから習っていません。
ともかく名和町はそんな古い歴史があり、そこにある「名和神社」は小さいが
別格の大社です。

さて、その買い取った小学校は窓も壁板も木造で赤い因部瓦の校舎がそのまま在り、広い運動場がついていました。
社員の中には、「私はこの小学校の卒業生よ」と言う人も多く、それが「私の工場」に生まれ変わり愛着も特に深かったと思われます。
本来小学校はその村の中心地にあり、地形も、通学・通勤もし易い場所で、地元の沢山の人に来てもらうには便利で愛すべきとても良い立地条件にあるのです。
地元としても女性の職場として転用出来るのは好都合だったろうと思われます。
名和町の評判を聞き、西伯町、北条町からも小学校跡活用のおさそいの声がかかって、その後のトリーカ多工場展開のもととなったわけですね。
ちなみにトリーカはご当地進出時に工場をいちから建てたのは、 (トリコット工場は設備体制から特別建築だが、)長島、高尾野のみで、その他の工場のスタート時は古い建物の転用や、既存の縫製工場を買収したもので、そ れも地元の産業誘致や、商社等から経営不振企業の支援要請を受けたものばかりなのですよ。
つまり、貧乏会社だから工場の新築などにお金が廻せなかったのですね。

そんな事情からトリーカの会社設立登記の最初の最初は名和町です。
だから私は「トリーカの本籍は鳥取県名和町です」と説明して来ました。
つまりトリーカの最初は名和工場から始まっていて、そこから九州の工場も含め現在の全ての工場や、トリーカそのものが存在しているのですから~!。
名和工場はトリーカの「母なる工場」と言えますね。
その名和工場は現在はありません。寂しい事です。
その名和工場の場所は後に名和町の要請で町に返却する意味の売却を行い、近くのトリコット工場と同じ敷地に移転し、その後に「裁断センター」を併設し、更にその後平成11年10月名和町から離れ淀江工場と統合し、今の「大山工場」へと生れ変わって行くのです。
トリーカ発祥の地に置ける操業は38年間余りで区切られることになります。
思えば母なる工場は発祥の地から成長変転の逞しい歴史を刻んだものですね。

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2006. 2. 28 高田

第4話  「名和工場パンティ事件」

「名和工場パンティ事件?」 

トリーカは「鳥取西村メリヤス(株)」として1961年4月に発足しました。
当時、旭化成がベンベルグの糸を作り、その糸でトリコット生地を編み、多色展開をして女性下着用素材としての販売を大々的に計画し、その先駆けに「七色パンテイ」を宣伝販売を行う事となり、名和工場はその縫製工場に指名されたのです。
昭和30年代は、新しい化学繊維がつぎつぎと商品化された時代です。
それ以前は「綿糸」か「絹糸」か、人造糸として「人絹糸=レーヨン」しか目につきませんでした。
そこに「ナイロン糸」が出来て、「テトロン糸」が現れ、「ベンベルグ糸」「アセテート糸」更に「アクリル糸」等化学繊維とか合成繊維の糸が発売され、それらの織物やニット生地が現れ交織・交編の生地が次々と出現したのです。
東洋レーヨン、帝人、旭化成、日本レーヨン等々原糸メーカーも大小出現しました。新しい原糸が生まれそれを生地にして、染色する。
それまでの綿糸・綿織物とは異なる発色や柔らかな風合い、美しい生地面など、消費者を驚かせたり、めずらしい商品として、衣料品の新時代がスタートしたのです。
白色が主体の女性下着の世界に色鮮やかな風が吹いたのです。
昭和30年代は、今にして思えば新しい繊維の売り出し花盛りの時代ですね。
その頃発売された繊維が、高度な品質になりながら現在も続いていますね。
新しい繊維の世界が始った時です。
そんな時代背景に在って旭化成が「七色パンテイ」と名付けて女性のハートを射止めに出たわけです。
こうして名和工場は来る日も来る日もベンベルグのショーツを縫う事となります。
それを路線便や自社トラックで9号線を走り大阪の「西村メリヤス(株)十三工場⇒十三営業所」へ送っていました。
十三工場の場所は今なら新大阪駅の少し西になります。
旭化成の直轄で在庫管理を行い、十三工場から全国へ再度発送していたのです。
当時は生地のバラ積みは無く、ダンボールケースに4~5反入りで入荷して来ました。
ナイロン生地は軽いものでしたが、ベンベルグ生地は4反で40kgのケースとなり、とても重いものでした。
その空ケースに今度は製品をぎっしり詰めて大阪に送り返してくるのです。
荷作りは荒縄で縛り、すり込みで宛名を書いていたものですよ。
当時はアルミボディの車体なんか無くて、幌もなく、シートを被せてロープで縛ってトラックが走っていました。
生地や材料もすべて大阪営業所(=十三工場)から送り出すし、材料や製品等の積み下ろしは工場でも大阪でも男性陣全員が大汗をかく大変な作業でしたよ。
大阪の営業所でも積み込みが始る夕方になると、男性はそれまでやっていた自分の仕事を中断し、全員が車と荷物の間に並んで、手送りしたり担いで積みこみます。
自分の担当だけではない。全員で全員の担当材料などの積みこみをやりました。
しんどかったが今になれば懐かしい思い出ですね。

そんな時、名和工場から発送した七色パンティの荷物が搬送中に崩れて、ダンボールケースが破れ、照明の無い夜間の9号線の道路に製品が点々とばら撒かれた事件が発生し、新聞を賑わしたそうです。
戦後15年経った時代とは言え朝になったら鳥取の田舎道にピンクや黄色や赤色の女性下着がこぼれ落ちている出来事は田舎に巻き起こった大事件だったでしょう。
こんな珍事件もありながら、「鳥取西村メリヤス」と言う会社が地元の皆さんに知られ、歴史は作られて行ったのです。
愉快なお話ですね。

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2006. 3. 1 高田

第5話  「鳥取西村メリヤスの創立」

「鳥取西村メリヤスを生んだ人」

生きものはコウノトリが運んで来るか両親の活躍で生まれますが、会社は誰かの「強い意志」で生まれると思います。
その意味でトリーカの始まりの初めは「初代社長西村洋二氏のある日の決意」だと想像されるのです。
鳥取県や名和町、国会議員等の強い産業誘致の要請、旭化成や蝶 理等お得意先の協力を受け、かたや「西村メリヤス(株)」を頂点とする事業戦略、そして社長ご自身の事業意欲、個人の人生哲学等々を総合判断し、「鳥取に 縫製工場を作ろう!」と決意された歴史的瞬間が必ずあったと思います。
当時大阪の企業が地方に工場進出する事例はまだありませんでした。
縫製業は他業種に先行し地方に進出した業種でしたが、1961年鳥取県に進出したのは「鳥取西村メリヤス」が1号で、その後に「エフワン(現グッドヒル)」が続き、さらに後に「浅利洋行」 (ここがずっと後タクト青谷工場~トリーカ青谷工場となる)など進出するというもので、その先発者であることは未開の地を切り開くような挑戦的事業経営の 意思決定であったと言えましょう。
当時「西村メリヤス株式会社」は、事業規模は中堅の染色企業でしたが、実質西村洋二氏の個人事業と言えたと思います。(更に言えば先代から続いた西村家の家業とも言えますが・・・。)
ともかくオーナーが決意すればオーナー企業はその通りに動きます。
だからトリーカの発足時の実態は個人企業であり、だからこそ前例が無くて判断し難い条件下でも、オーナーなればこその覚悟と責任のもと決断されたと想像致します。
もし、この決断が無かったら今日のトリーカは生まれてない!。
西村洋二氏がご健在なら、この決断の過程や背景だけはお聞きしたかったのですがもう出来ません。とても残念なことです。
西村洋二氏は和歌山県田辺市に生まれ、畑中の姓でしたが東大阪の鴻池にある「丸松」に在社していた戦時中、西村家に婿養子となり西村姓となられました。
丸松は大阪のメリヤス業界の元祖的存在で、そこの出身者が多くの企業を創立し今日の大阪の繊維産業を繁栄させたと聞きます。
西村氏が丸松に在籍し「畑中洋二寮長」であった時「副寮長が宗安正政氏」であったそうで、その後当時の仲間が数名西村メリヤスに移籍し、後の「西村四天王」と呼ばれる強力な経営者メンバーを構成したと聞きます。
この宗安正政氏が後に烏取西村メリヤスの社長として初代西村洋二氏に続き昭和40年以降二代目社長となられ、更に最盛期のトリーカを作り上げた方なのです。このお話はこれから盛り沢山にいたしましょう。

さて、写真を見て戴きましょう。クリックして虫眼鏡の拡大をすれば見えると思います。



西村メリヤスが大阪の南海ホークスのホームグランドであった大阪球場に宣伝のホームラン賞を出していたころのものですよ。
グランド整備のおおきな刷毛(グランドブラシ)をラビットスクーターで引廻していた、そのブラシに西村メリヤスの名前が入った写真です。
エバーブリーチは晒加工のブランドであり、加工技術を米国のデュポンと提携していたのでしょう。この話はまた後日に譲ります。
この写真に載っているのが、若き西村洋二社長(中央メガネの方)で、その左が宗安正政氏です。
昭和34~6年頃だと思います。お二人が並んで写ってるのは珍しいものですね。
当時の西村メリヤスは意気軒昂であったなぁ~。写真おわり。

戦後復員した西村洋二氏は単身インド経由西回りプロペラ飛行機で渡米し、当時の最先端染色機「J-BOX」と言う連続精錬染晒装置~これがエバーブリーチ加工~を輸入し、大阪のメリヤス晒加工を独占する業績を上げたと聞きます。
終戦後衣料品は不足し、綿糸の統制された状況下、配給権を得た者は、編み機をガチャンと動かす度にウン万円儲かり、「ガチャマン」と言ったそうです。
当然晒・染色加工も儲かっただろうと想像できます。
ともかく挑戦的なオーナー経営者と四天王と呼ばれた男達が戦後の繊維産業の華やかな時代を経て染色事業のみならず製品販売事業まで展開したいと言う夢と意欲から、「鳥取西村メリヤス創立」の運びとなったようですね。

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2006. 3. 2 高田

第6話  鳥取西村メリヤスの係累と変遷

「鳥取西村メリヤスの係累と変遷」

鳥取西村メリヤスの会社係累や大まかな変遷の経過図をみます。



以前の写真を見たように、上の図をクリックしてください。
①戦前からあった「西村メリヤス」は戦後の繊維産業興隆と共に、本社染色事業以外に大阪の十三から少し北寄りに十三工場として製品製造部門を展開。
昭和30年 代に入り、佐賀県炭坑閉鎖に伴い縫製工場「ペリカンメリヤス」を進出、一方十三工場に隣接して米国方式衣料品専門「ディスカウントスーパーペリカン」、郊 外型「ドライブインレストランペリカン」、大阪駅地下街に「小売直販店ペリカン」を出店したり、更に衣料卸問屋クロスを子会社化等々非常に先進的で挑戦経 営を展開しました。

※この時のスーパーや郊外型ドライブイン・レストランは、私達の目には初めてのものでした。恐らく関西では先駆けとなったもので、アメリカ方式を取り入れたもので、西村社長の先進性を如実に表した経営の証しだったでしょう。
前後して阪急百貨店資本が大阪から京都に通じる国道171号線沿いの高槻に「オアシス」を作りました。ペリカンと同じく、郊外のドライブイン方式でスーパーとレストランを併設したもの です。ペリカンは数年で消えましたが、オアシスは形を変えながらも現在も存続しています。当初の高槻のオアシスは平成になってからマンションに変りまし た。
ペリカンも着眼点は阪急資本より更に先駆けるすばらしいものだったのです。
残念ながら背景となる経営体制が弱く、またその業界の経験も無く弱かったのでしょう。でもレストラン・ペリカンのみは単独でその後も運営されていたと思います。いずれにせよ西村メリヤス本体の経営破綻が無ければ、大きく発展していたかも知れません。残念ですね。

②別に経編トリコット工場を東洋紡績と合弁で「東西メリヤス工業」として設立。
その後東西メリヤスの一部を鳥取西村メリヤスのトリコット工場に移設しました。
この東西メリヤス」の生産した生地を使った製品開発部門が行う「ワコール社との取引ことはじめ」については別の項で話します。
まさに現在のトリーカへの流れの源泉のお話しですよ。

③鳥取県で名和工場に続き、トリコット工場、西伯工場、北条工場、淀江工場。
兵庫県に兵庫西村メリヤス㈱設立~後の兵庫工場
岡山県に岡山西村メリヤス㈱設立~後の美作工場

④昭和47年2月上記三社を合併し「株式会社トリーカ」誕生
⑤㈱岡山トリーカは後の総社工場へ
⑥昭和55年3月「株式会社タクト」設立。~平成10年トリーカに合併。
⑦「株式会社タクト野田」は現在トリーカの一部出資会社。

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2006. 3. 3 高田

第7話  西村メリヤスの思い出

「西村メリヤスの思い出」

昭和30年代の「西村メリヤス株式会社」はまさに順風満帆でした。
繊維関係のビジネスでは、関西のメリヤス染色業界では当然トップだったし、十三工場ではグンゼ等と同様に「メリヤス肌着」の製品製造販売を行っていました。
肌着部門は「エバーウエアー」と言う自社ブランド製品もありました。
本社の染色加工のブランドが「エバーブリーチ」であった事は先に書きました。
別に「化繊課」と呼んでいましたが女性下着のスリップ、ショーツ、ネグリジェ等も造り、レナウンやルシアン、大阪の大西衣料、その他沢山の問屋に販売していたのです。
営業マンも10人位とかデザイナーの女性も2~3人いて、サンプル開発から材料仕入、原価計算、見積りそして縫製から製品販売まで何もかもやっていました。
昭和30年代初頭では、あのW社より規模も大きく有名だったらしいですよ。
つまり染色加工や縫製加工と共に、小さくても自社販売も行いメリヤス肌着では「Everwear」というブランドも持っていたのですね。
当時大阪のミナミに大阪球場(現在の大阪ドームとは別の場所)があり、南海ホークスのホームグランドでした。
そこでホームランが出ると、西村メリヤスのエバーウエアがホームラン賞として提供され、球場内を走るグランド整備車ダイハツミゼットには西村メリヤスの名前が書かれていたのです。~ごめんなさい、ラビットスクーターだったかも知れない。
西村社長は西鉄ライオンズがご贔屓だったらしく、当時の大下選手の後援会長だったと聞いています。有名な「青バットの大下」で、本人を見た事は無いのですが、昭和20年代には会社にも時折来ていたらしいです。
片足に大人がすっぽり入るような特大サイズのブリーフを作ったそうな。
徹夜で酒を飲み、酔っ払って試合に出てホームランを打つ豪傑だったらしいですよ。

西村社長は野球に関心が深く、西村本社が淀川の堤防横にあったことから、河川敷を整備して立派な野球のグランドを作っていました。
西村メリヤスの社内チームも強く実業団野球大阪大会の常連だった時代も在ります。
何しろ大学時代は、あの村山選手と一緒に投げていた人(肩を痛めてプロ行きは諦めたが野球しかやらなかったと言うような選手)が入社して投げていたのですから強かったでしょう。
甲子園で良く見かけた浪商高校が当時は同じ東淀川区にあったので、そこの後援会長の時代もありました。浪商の二軍でしょうが、毎日、西村メリヤスのグランドで練習していました。
西村社長は色白で良く肥え、黒ぶちのメガネをかけ、やや高い声だったと思います。
先日写真を載せましたね。
その頃私はスクーターに乗っていましたが、ある日十三工場から帰るとき、「高田君東西に帰るのなら本社まで乗せてくれ」と言われて走ったことがあります。
東西は東西メリヤスの事で本社と言うのは西村メリヤスの本社のことです。
当時私は体重50kgもなく、西村社長は80kgはあったでしょう。前の車輪が浮くのではないかとひやひやしながら運転した記憶があります。
その頃も二人乗りはダメだし、踏み切り前一旦停車等はやかましく言われていましたが、お構いなしでした。なんてたって西村社長は東淀川区の交通安全協会の会長で、その頃交通違反は全て十三警察がもみ消してくれたものです。
もう時効だから言っても構わないでしょうが、いい世の中でしたね。

西村社長は偉い人だったが気さくな良い人だったなぁ~。

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2006. 3. 4 高田

第8話  西村メリヤス十三工場

「西村メリヤス十三工場」

「十三」を「じゅうそう」と読むのは難しいですね。
今日は、十三工場と呼んでいたが実質は製品の営業活動の拠点だった所の話です。当時十三工場には縫製現場もあり社員も100人以上居たと記憶してます。
紳士肌着などメリヤス肌着を扱う内地課、セーターなど特殊製品を扱う特繊課、そして女性下着を扱う化繊課がありました。
西村本社はメリヤス生地の染色加工工場であり、十三工場は二次製品を扱う工場だったのです。
大阪梅田から池田・宝塚に抜ける産業道路と言う幹線道路に面していました。
事務所の二階が寮になっていて、そこで我々寮生は生きて来たのです。
昼間はおろか夜中から朝まで道路の騒音、振動,ほこりにまみれ、それに加え男性ばかり一部屋に3~4人詰め込まれると言う生活ですから、汚さも想像出来ようと言うものです。
私もいましたが、竹中、桑本,丸尾の皆さんや一時杉山さんも生活しましたね。
この寮生活はまた別に話す機会もあるでしょう。

トリーカの前身である「鳥取西村メリヤス」は、この十三工場の指揮下にあり、当初は化繊課や内地課のそれぞれの仕事を受けその管轄内にありました。
この「化繊課」が広い意味ではトリーカのルーツになる組織と言えるでしょう。
そこには、のちにタクト社長になられた堤 環爾氏や、あらゆる工場の立ち上げに携わった大島基三氏が居られました。
この方達はこの後切れる事無くワコール関係の仕事でもお世話になり、仕事も工場も、会社も持ち上げられたものです。
このお二人はあまりに常態的に居られたので特にお名前をその都度挙げるわけには行きませんが、トリーカの創業からつい先年まで在社されご指導戴いた方達です。

十三工場は昭和20年代からあり、古い縫製場では一つの大きなモーターが全てのミシンを動かしていたのです。
解りますか?、その大きなモーターから横軸を出し、その軸にベルトをかけて何台ものミシンを横並びに動かしたものも見たことがあります。
皆さんは想像出来ますか?
つまり現在のミシンは個別単独動力台ですが、連結動力台?の時代もあったのですね。
裁断は手延べして、型紙に沿わせて、すべて包丁で押し切っていました。
半月型の良く切れる包丁でしたよ。
その後円刃カッターから縦刃裁断機に変り、バンドナイフが置かれたのは更にその後でした。
昭和36年頃ジューキミシン?によるシンクロシステムの考え方が広められました。シンクロシステムによる流れ作業の管理方式は形を変え今日まで縫製班の基本システムとして続いていますが、われわれトリーカはその真髄をマスターしているのでしょうか?
さらにバンドル方式と合わせその発展した仕組みが「トリーカ・タイムバンドル方式」だと言えるのでしょう。

十三工場で縫製したベンベルグのショーツは縫い上げると、ひ げきり内職に出して、次にゴム通し内職に出しました。ウエストの8コールゴムは結ぶこともありましたが、手縫いで繋ぐ品番もありました。その後検査班で検 査して、一枚毎にアイロンをかけ、ベンベルグボンのラベルを付けて一枚袋にたたみます。それを20枚=2デカ函に入れゴム印を押すのです。
考えてみれば縫製業の仕事は、その頃から余り変化していないですね。
進歩してないと言うことかな?
スリップ、ペチコート、スイート、ネグリジェ、パジャマ、等色々ありました。
それらすべて、自分達でデザインを考え、レースを探し、サンプルを作り、そして大阪や京都の問屋さんに売りに行くのです。

私の最初の商売はスリップで白、ピンク、サックス各色100枚づつサイズ込み300枚の売上でした。
昭和37年の春だったと思います。
当時の基本色はWH、PI、SXの3色で、まだベージュ系(いわゆるスキンカラー)が出現したのはずいぶん後の事です。
100枚は10デカと呼び、ほぼ一反の生地で取れました。すべてデカ単位でした。
本体生地とレース裏打ちのナイロンハーフ、レース2~4点、かたひも、かん、サイズネーム、シール、品質表示ネーム、包装材ラベル、台紙、袋、等一式、トムソン函、その他クリップなど総数30デカの為に手配し、縫って戴きました。
親切な木原伸明さんと言う先輩が工場の段取りをやってくれましたが、あまりにも小口なので腹を立てていたと思います。
でも私自身は初めて注文がとれて、嬉しかった「初商売」です。生産のこと等気がまわりません。
しかし何事も始まりはそんなものなのかも知れませんが、木原先輩には今でも感謝しています。
新米の頃は誰か庇ってくれる人があって始めてやって行けるものですね。
ありがたい事です。

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2006. 3. 6 高田

第9話  「東西メリヤス工業株式会社」

「東西メリヤス工業株式会社」



「東西メリヤス」の会社のマークは丸の中に十字の矢印と言うか方位を示す磁石模様の入ったものでした。
大リーグイチローの球団シアトル・マリナーズのマークに少し似ています。
トリーカのマークも英語のTの字を丸で囲み八方に大きく、小さく矢状のものが出ています。これはトリーカが四方八方に成長拡大して行く事を夢見て作られているのですが、こちらの方がマリナーズに似ているのかな?
私は東西メリヤスのマークが、トリーカのマークを考えるベースにあったものだと勝手に推察しています。これは宗安社長に確かめないと解りませんが、今では確かめるすべはありません。

実は私は東西メリヤスに昭和34年に入社し39年末に鳥取西村メリヤスに移籍した経歴の持ち主です。
この東西メリヤスがワコール社との取引き発祥の場だったし、トリーカがブラジャーやガードル等のファンデーションに関係が出来たのも、東西メリヤスでパワーネット生地の編み立てをやっていたご縁から始ったと思うのです。
つまり、西村メリヤスは綿メリヤスが本業で、旭化成との関係もベンベルグのボンパンティやランジェリーは十三化繊課で扱っていたのですが、ファンデーションは別物だったのです。
だから聴きなれない名前ですが辛抱して読んで欲しいと思います。
東西メリヤスは東洋紡績と西村メリヤスの合弁で昭和32年に設立されたトリコット生地の編み立て工場でした。
東洋紡と西村メリヤスの名前から社名が出来ており、完全空調無窓防振装備の工場で、当時では最先端の設備を誇り、昭和天皇の弟君高松宮殿下が見学に来られたり(宗安日誌によると昭和35年5月27日高松宮、同妃殿下御台臨とあります)、工業高校の教科書にも載っていた新鋭工場だったのです。
やはり東洋紡績など大企業の設備に対する考え方は、我々中小企業とは次元が異なります。立派な工場だったのですね。
社長は西村洋二氏、工場長は宗安正政氏で後のトリーカ社長となる人です。
私は34年の新年一月に入社しました。その東西メリヤスでは当時としては珍しく「工場長」と呼ばずに「宗安さん」と呼んでいました。
東洋紡から来ていた人も含め全員が役職位は呼ばずに「さん付け」の会社だったのです。当時としては珍しく宗安さんの考え方が進んでいたのだろうと思います。
そして、東西メリヤスには、のちのトリーカを背負われた先輩達が居られました。
後年タクト社長になられる仙波清重氏、そして窪田忠雄氏や重松 惇氏、御手洗則嘉氏などお名前をその都度挙げられませんが、トリコット事業から縫製関係に異動し、様々な場面で活躍された方達であり、私はその時以来50年間の及ぶ長い間お世話になることになるのです。

東西メリヤスの工場では東洋紡績の綿糸を使い輸出用の手袋(貴婦人の着ける例の長い手袋)の生地であるWトリコットや、人絹糸(人造絹糸=レーヨン)を使いゴム雨靴の中裏に張る起毛生地などを24時間360日三交代勤務体制で編み立てていました。
ここで19歳の私は倉庫担当で原糸の受払い、生地の出荷などを、50kgに満たない小さく細く軽い体重ながら100ポンドの綿糸俵の大きな山と格闘していた次第です。
100ポンドの綿糸と言うのは、1ポンド(0.454kg)の綿糸とその芯になっている竹輪ぐらいの木管に巻かれ、合わせて丁度0.5kgの巻きが、100本入った藁俵(こもかぶり)で一俵50kgの「たわら」でしたよ。結構重かったんです。
それを倉庫で4~5段の山に積上げていました。
今思うとどうして持ち上げたのだろうと思うのですが~若かったのかな~!
時代は新しい繊維~合繊の開発が盛んで、綿糸とレーヨンしかな い時代から、東レのナイロン糸、帝人のテトロン糸、アセテート糸、旭化成のベンベルグ糸、各社のアクリル糸等々が次々と現れ、やがて米国ライクラ社スパン デックス糸(ウレタン糸)が試験編用に入荷するなど多士済済の時代だったと言えます。
これらは、やがて旭化成社のベンベルグトリコットによるボン・ショーツの縫製や後日のパワーネット生地の編み立てからブラジャーやガードル等のファンデーションの製品化に繋がるわけですね。

この頃、帝人(テイジン)がテトロン糸とアセテート糸の交編による「テアニー生地」を発売し、その編み立てと共に製品化も着手しました。
西村メリヤスが旭化成と関連が深いので、ライバル関係のテイジン・テアニー製品は東西メリヤスでやろうとなったのでしょう。
東西メリヤスで編み立てと同様に製品化もやると決まり、当時倉庫番から生地販売も兼ねていた私に「製品販売担当」の新しい仕事が命じられました。
今で言う「新規事業ベンチャー部門」ですね。
東西メリヤスは編み立てでは最新の設備を誇る工場でしたが、二次製品は一切手がけていませんでした。
若い会社ですから先輩にも経験者が居ません。
誰も製品の事は何も知りませんから、私が昭和36年の秋から西村メリヤス十三工場に住み込み、ランジェリー製品の勉強を始め、37年の春から大阪市内の問屋訪問を繰り返し、その最初の商売が30デカのスリップだったわけですね。
そして、37年の夏、宗安さんに連れられ初めて「ワコール社」を訪問したのが今日に続くその後の長い長い「ワコールさんとの歴史」の始まりとなったのです。

明日は「ワコール初商い」についてお話しましょうか。

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2006. 3. 7 高田

第10話  「ワコール初商い」

「ワコール初商い」



初商い(はつあきない)なんて懐かしい言葉ですね。
初商い、初商売、初取引き、初受注、初仕事 等々新年お正月の言葉の様ですが、今ではビジネスとして有るのが当然のようなワコール様との関係にもゼロから始まる最初の時がありました。
東西メリヤス工業株式会社は前述の様に原糸を受けて経編=トリ コット生地を編み立てる会社でしたが、そこで帝人の原糸を使って帝人テアニィーと言う生地も編み立てていました。その生地を使用して製品の販売を開発する こととなり西村メリヤス十三工場でサンプル開発・作成を行いました。
スリップやショーツの見本を持って西村メリヤスの先輩営業マンに紹介してもらい、大阪市内の内外衣料とか大西衣料、京都のルシアンなど問屋さんを廻りましたがなかなか売れませんね。
当時ランジェリー用の生地では、東レナイロン・ミルコットが一番強く、旭化成のベンベルグも人気が良かったものです。
その点テイジンのテトロンはシャツ地用としてはトップで、テトロン糸とナイロン糸で編み、ナイロン糸のみを色染めして縦筋柄のシャツ地が流行りました。
そのテトロンとアセテートの交編生地ですが、ランジェリー用の「テアニー」と言う生地は知名度も低くその製品も売りにくかったものです、三番手と言うより五番も六番手もの遅れだったと思います。
その頃決算期は10月25日だったのですが、東西メリヤス製品部門の38年度(37/11~38/10)は2000万円ほどしか売上高が出来ませんでした。
今も昔もベンチャーの立ち上がり期は苦しいものですね。
そこで二年目の39年度は何とか一億円の売上を目指すと目標を掲げたものです。
編立が本業の東西メリヤスにおいて製品部門は当初私一人からスタートし、39年度には5mの裁断台を設置し男女一人づつ増員し三人の部門で運営していました。
今思うと、良く増員してもらえたものだと思います。
いろいろお願いし口説いたと思いますが、やはりトップの宗安さんのベンチャー育成的配慮・経営者思想が有ったのでしょう、それに乗って頑張っていたのです。
この頃、昭和38年春ですね西村メリヤス十三工場の化繊課に紅顔の美少年竹中顕二氏が入社されました。
和歌山の高校卒の18歳、若いね~。だから長いお付き合いです。ありがとうございます。
そして受注があると、その西村メリヤス十三工場の生産ラインに入れてもらったり、自分達で裁断し、縫製工程のみを大阪市内の縫製屋さんに委託加工するのです。そうゆう7~8人の縫製屋さんがあちこちにあった時代です。
もちろん検査・包装・納品まで我々自身もやりました。楽しい家内工業ですよね。
素人の私が規格や縫製指導までやって、商品企画、受注活動、材料選定、生産、納品すべてやり最後に集金があります。材料Setや、縫製遅れ、品質不良、色違い、規格間違い、納期遅延のお詫び等々毎日いろんな問題を起こしながらやっていました。

少し前後しますが、そんな中で37年夏のことです、(宗安さんの古い業務日誌によれば37年7月30日)京都のワコールさんを宗安さんに連れられ初訪問したわけです。今の京都ビル(西大路東側)のところがワコール本社でした。
当時の川口部長、後の副社長を訪ねましたが、蝶理の白井さんと言う方が同道紹介をしてくださって、宗安さんも初めて会う人でした。
この川口郁雄部長は、塚本幸一社長と同級生で中村伊一氏と共にワコール創業の三人として伝説的有名な方です。その後トリーカの強い後ろ盾になって下さった大恩人です。この三人の方もお亡くなられてしまいました。
ランジェリー担当の窓口を紹介されその後何回か訪問して、テアニィーのパイル生地を使ったウインタム(袖付きスリップ)とネグリジェの製品買いの発注をもらいました。お絵描きで描いた商品です~ヘンな絵ですが笑わないで!
合わせて1000枚程度の特価品ですがその時の担当が池澤喜和さんと言う後の副社長さんです。
「ワコール初商いが出来た」のですね。
今から思えば記念すべき「初商い」ですが、当時は機会ある毎にどこにでも新規得意先の開拓をやっていました。
断られても何回も訪問するわけですよ。
だから、ワコールもその様な会社の一つであり、通常の初取引き 開始と変わらぬ感じだったと思います。ただ、多くの新規店はすでに西村メリヤスの取引先であり、そこに東西メリヤスとしての口座を新設してもらうのです が、ワコールの場合は西村メリヤスの紹介無しの新規開拓ですから、少し嬉しかったと思います。

でもその様なお店から連続して発注が貰えるものではありません。
その後も何回も訪問しサンプルを見せ見積りを繰り返すのです。
そう言う商売のかたちでした。
テアニィーの生地を使った商品を売るのが目的なのです。
すべての条件・交渉が合意してはじめて成約出来るのです。
その頃のスリップの縫製加工賃は40~50円でした。それがワコールさんは60~70円と高い見積りが可能でした。
そのかわりワコールの型紙使用を求められ、製品の品質・規格も指定されます。
他社はすべてこちらの規格で買ってくれましたがその点ワコールは当時から違いました。例えばスリップの裾廻りサイズは、ワコールは115cm以上を規格としていましたが、一般的には110~115cmでした。価格がきつい時は110cmをさらに切り下げて細くし、生地要尺を減らして作っていました。窮屈で着れないようなスリップもあったかも知れません。
また、当時上手なオーバーロックの縫い方とは切り落としをゼロにする事でした。
だから、3mm落とすワコールの縫製規格は贅沢と見られたものですよ。
品質を第一に大切にされるワコールの姿勢は当初から厳しかったのですね。
上記の初商いの後37年11月29日にテアニースリップ3000デカ(30,000枚)の受注決定の日誌があります。当時としては大きなロットです。
生地を作る会社である東西メリヤスとしては約300反分の商談決定です。
こうしてワコールとの商売が少しずつ増えていくのです。

さて、39年度(38/11~39/10)の売上は9960万円で一億円には残念ながらあと少し届きませんでした。夜中早朝と走りまわっても惜しいところで届きませんでした。
私の人生で心残りな数字の一つがこれです。
ベンチャー部門で一億円の売上を達成する事は容易ではないのです。
今の時代でも一億円の売上に挑戦している会社が日本中に沢山在り、無念の涙を流していることでしょう。
だから現在のトリーカで営業二課の海外生産の当初からのご苦労や、米子工場などでの開発商品、総社工場のご苦労等々、皆さんの苦戦の積み重ねの一部を私は良く理解していると思っています。
さてこの一億円弱の売上の内ワコールへの売上が5,000万円位だったでしょう。
こうしてワコールとの取引きは、スリップ、ウインタムなどを中心に初めチョロチョロと、でも年間5,000万円もの取引きを頂戴して始ったのです。
そう言えばこのころワコールの営業課に小嶋英司氏も居られ、ボンショーツの注文やスリップのレース探し、刺繍屋巡りなど一緒にしましたなぁ。
待ち合わせはいつも阪急淡路駅の近くのパチンコ屋でした。
思えば二人とも若くて楽しい時代だった。
この小嶋さんとは今日もお世話になっています~長いなぁ~。

この年の決算日10月25日に、西村メリヤスの倒産事件が発生し、東西メリヤスのベンチャー製品部門=高田商店は二年余りで閉鎖になり、鳥取西村メリヤスに移転する事となりました。

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