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トリーカ昔物語

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2006. 3. 31 高田

第31話  トリーカの歴史大まとめ

「トリーカの歴史大まとめ」

ここまで工場の設立を主題に昭和36年4月「鳥取西村メリヤス株式会社」の設立から約10年間を話してきました。
いや、まだまだこの間で話す事はランジュや子供パジャマなど、色々残っているからこの後も見て頂きたいですね。
先般お断りした様に、どうしてもワコールや私中心の話になってしまい申し訳ないが、これ以外に沢山の歴史がある事はお忘れ無きようにお願いします。
本来は多くの方々のお話を聞いて、事実を掘り返し、データを集めて、それらを基に語るべきですが、それはまた別の機会に、あるいは別のお方や皆さんに書いて頂く事として、私のおぼろげな記憶に基くエッセー風となりますがお許し願いたいと思います。

さて、トリーカの歴史を大まかに線引きして見ましょう。
①昭和36年~39年  創立から西村メリヤス倒産まで~草創混乱期
②〃 40 ~ 47  宗安社長による鳥取西村メリヤスの再出発~模索発展期
③〃 47 ~ 55  「トリーカ」発足~55年「タクト」の設立~拡大前期
④〃 55~平成3年 福永社長時代を含め宗安社長・会長まで~拡大後期
⑤平成3年~現在  バブル崩壊後の高田・竹中社長「生き残り経営」~守成期

後日「概略年表」をお見せ出来ると思いますが、まあ大きく五時代に区分できるでしょう。
こうして見るとほぼ10年毎に節目がありますね。
鳥取西村メリヤス創立以前の昭和34年春私は東西メリヤスに入社し、竹中社長は昭和38年春鳥取西村に入社しました。
今では昭和40年以前を知る者はこの二人だけです。
昭和45年5月北条に杉山義明工場長が入社、46年4月に桑本茂樹専務が大阪営業所に入社されています。
丸尾洋二常務も46年4月だが、しばらくは西村メリヤスに所属しておられた様です。

鳥取西村メリヤス創立から少し遅れ、東西メリヤスを窓口にしたワコールとの取引きの開始とか、西村メリヤスの倒産と言う大事件を含む会社草創の時代を経て、1その後10年で「株式会社トリーカ」に改称し、名実共に西村メリヤスから脱皮します。
この10年間は創業間も無い連鎖倒産の危機を乗り越えまさに創業の意気軒昂な時代と言えます。鳥取西村は野武士集団か!と言われた時代です。
後日お話する機会は有るかとも思いますが、表面的なビジネスの展開以外に経営そのもののあり方の課題、経営資金、また西村洋二前社長との関係など、私ごとき若輩者には窺い知れないお金と経営権等まさに企業統治の問題があったようです。
しかしこの点は判らないから書けません。
宗安社長と西村会長は若い寮生時代からの深い関係です。良くも悪くも理屈を超えた運命的連携関係や、だからこその問題点が有ったと思うのです。
わからない事ですが、宗安社長が内面的にもご苦労されただろうと拝察する次第です。
この時期が①の草創混乱期と②模索発展期にあたります。

それらの問題と決別して、烏取・兵庫・岡山西村メリヤス三社の合併と社名変更を行い唱和47年「株式会社トリーカ」が生まれます。
大阪営業所も現在本社の茨木市に移ります。でもまだ本社は烏取ですね。
「トリーカ」となって鳥取地区の整備強化に加え、その後九州・四国にも工場が出来ます。この頃ワコールとの取組みは益々拡大し、資本関係の発生から順次強化され蝶理の持ち株が最終的に全面ワコールへ移動します。
ワコールの連結決算会社となり、それに適う財務・会計管理面での体制確立等が必要となります。
また、労働組合も社内労組から繊維労連や全繊同盟の上部団体に加盟し活動は強化されます。
そして昭和56年創立20周年。この辺りまでが③成長拡大の前期だったと思われます。

その頃前後して昭和55年「タクト」が設立されます。
この後はタクト関係のビジネス拡大を主とする④成長拡大の後期となります。
ワコールの量販店ビジネス「WICウイック社」に対応する別会社としたものです。
ところが、直後にWICはワコール本体に吸収合併され、ウイング事業部となってしまいます。
しかしこの後はウイング部門とのビジネスが拡大します。
工場建設もタクトによるウイング対応が主となってきます。
昭和62年11月株主総会において宗安正政社長が退任され、ワコールより福永兵一郎社長が就任されます。
同年6月ワコールは塚本能交社長が誕生されます。
昭和64年1月昭和天皇崩御され、平成元年となる。この年ベルリンの壁崩壊。
平成2年12月株式市場急落、バブル崩壊と言われる期間の始りです。大変化の一年でしたね。
世界が変化・変革する時代に入ります。
トリーカの大発展も規模的にほぼこの頃が頂点と言えるでしょう。

平成3年5月高田辰義社長就任。同年創立30周年式典を行います。
この後現在に至るまで事業環境は逆風厳しく⑤守成を本分とする経営となります。
ワコール・鳥取銀行からの出向者は無くなり、以後現在まで人的関与はありません。
経営者の世代替りの時となります。
西村洋二オーナー、宗安正政オーナー的創業の絶対的経営者から、言うなれば
番頭出身、サラリーマン社長による経営体制に転換します。
大きな意味では「資本と経営の分離」が出来ました。

価格破壊、海外進出、国際価格、円高、等々国内のアパレル・縫製業界に赤信号が出ます。
この時代の趨勢を受け、トリーカは社員主体・人間主体経営を掲げ「国内存続企業」を経営の基盤に置く決意を致します。
その後の方向を定める大きな基本姿勢の決断です。
ここから後は皆さんも良くご存知の事ばかりでしょう。
本社移転、研修生受入事業開始、トリコット工場閉鎖、工場合併集約、タクト吸収合併、人事制度抜本改正、工場別集団成果主義導入、ITネットワーク構築、財務・管理会計体制構築、ISO9002取得等々、多方面にわたり21世紀企業に向けて経営改革が行われました。

平成7年10月宗安正政氏ご逝去。平成10年6月塚本幸一氏ご逝去。
巨星が次々消えます。
平成12年6月竹中顕二社長就任。経営改革は高田~竹中へと受継がれ続きます。
海外生産の開始~中国大連の指定工場より製品受入開始。社内ベンチャー26社設立、研修事業100名/年の体制確立~常時約300名の中国人社内在留、中国生産拠点の構築から拡大へ、レントゲン的検針手法開発、社内品質保証体制、等々となります。

変化の激しい時代環境に適応しながら企業を維持守成する事は、そこに住む者は
みな苦しいが、力を合わせて困難を乗り越えて行かねばなりません!
過去の記憶から、未来の夢へ歴史は日々つくられるのです!

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2006. 4. 1 高田

第32話  「子供パジャマ物語」

「子供パジャマ物語」



初期のワコールとの取引きはランジェリーを主体として、大人のネグリ、パッジャマを受けていました。
昭和45年頃のある日「高田のところはメリヤス屋だから、メリヤスの製品は上手いやろう?」と声をかけられたのです。

あの頃は毎日の様にワコールに通っていました。
いわゆる御用聞きの様に頻繁に通い、新規受注の堀起こしやら見積りやらの商談や、製品の納品から、材料の引取り、縫製進捗、納期の打ち合わせ等々すべて相対しての打ち合わせが出来ていました。
電話ではらちが開かないと言うわけですね。
だから私は仕事に関する一切をかばんに詰め、「高田事務所」が移動していたのです。何でも答えられないと仕事になりません。

子供のスリップは布帛やクレープなどの製品があったお話はしました。
子供用パジャマは同じ担当の井上 保さんからの呼びかけでした。
綿メリヤスで鹿の子生地に可愛い花模様などのプリントがおかれた子供用パジャマを発売するので縫わないかと言うお話でした。
この井上さんにもワコール取引きのほとんど当初から(東西メリヤスの頃から)
ずいぶん長い間お世話になったものです。
そう言えばほめられた事もありますよ。
その頃の商売はすべて「引き合い(呼掛け)~見積り~交渉~値決め」を経て決めました。当然希望納期も示され縫製予定も立てます。
この見積りは型紙、縫製要領、あればサンプルを見て行います。これらの資料をお借りして持ち帰って夜の仕事でやります。
材料の要尺算出については失敗は出来ません。食堂のテーブルや床の上に、紙をひろげたり、新聞紙のこともありましたが赤鉛筆で型紙を置いて、いわゆるマーカー型入れをして、要尺を算出したのです。
子供ものは8~9歳の中心サイズで行いましたが、型入れの5%ロス増しくらいで算出し、その他レース、付属品すべての材料を書き出して、単価を掛けます。
加工賃は自分で考え、ほとんど製品を見てカンで見積もったものです。
包装材料費まで加算して、包装済み製品納入単価として価格交渉しました。

ほめられたのはこの「見積り要領と書類がキチンとしている」と言う事だったのです。
当時先輩他社の見積りは「ええ加減」だったようですね。そうゆう時代だったのです。東西メリヤスには「ミタコピー機」がありました。まだ謄写版が使われた時代ですから、コピー機の最初のものだとおもいます。
そのコピー機で見積書の様式を作り、その様式で毎回見積書として出したから良かったのでしょうね。

少し余談になりますが、昭和30年代後半39年の東京オリンピック辺りまでは、会社の事務業務は、木製の机や椅子で、黒い電 話機です。計算はソロバンで、ソロバンの出来ない人は計算尺や筆算です。計算機は西村メリヤスの経理部門に一台?ありましたが、手回しのタイガー計算機で すね。文書は基本的に手書きで、カーボン紙を引いて1~2枚の複写は取れました。多くのまいすうが必要な場合は、ロウ紙に鉄の筆で文字を書き謄写版で手刷 りしたのです。
小学校の試験用紙などすべてこの方式です。
契約書などの重要書類のみ、外部のタイプライター屋さんに依頼していました。
計算機やコピー機、FAXなどは、ずいぶん後の時代に出現します。
むかし昔のお話ですが、その頃からワコールさんとの取引はスタートしているのです。パソコン画面を睨む現代とずいぶん違いますね。

さて、子供用メリヤスパジャマの呼掛けは勿論受けます。
最初は北条工場に生産を頼みましたね。
その後、子供パジャマは北条から名和工場の名物商品?として移行され一世を風靡する事になり、工場の皆さんにも愛される製品になったと思います。
さてメリヤス生地には、平二本ミシンや環縫いのミシンが要ります。
西村メリヤスには沢山在るミシンでした。
ワコールはブラジャーから出発し、ブラジャーは基本的に「綿の布帛生地使い」から出て、布帛用のミシンが多かったのです。当然伸縮性は無い生地です。
いま思えば理解しにくいでしょうが、パワーネットが出る昭和40年頃までのブラジャーは布帛製品が主流だったのです。
昭和39年にストレッチブラやストレッチガードルが初めて発売されているのです。
わざわざ「ライクラ」の併記がありました。つまりストレッチ生地は珍しい時代なのですね。

この点は注意して記憶しておいた方が良いと思います。
ワコールの縫製規格等の元のもとは布帛縫製が前提で開発され、その後修正されていますが、基本思想に布帛縫製の考え方があると思います。
伸縮するパイプ状のニットの生地をも、平面的に広げて使うのが原則となって、我々も慣れたましが、本来のメリヤス屋さんならパイプ使いを前提に考えるのが当然のもので、開いて使うなどと言う事は邪道なのです。
ワコールはもちろんご存知でしたが、敢えてされていたのでしょう。
われわれはこれらを承知で製品づくりに対処しなければなりませんね。

子供パジャマは、メリヤス生地やネルの生地使い、夏ものは布帛 やクレープも含めいろいろありました。パジャマは当然上下ツーピースに分かれます。同じ班で縫っても後処理などでズボン部分(その頃ボトムとかパンツと呼 ばなかった)は別の動きとなって、最終の包装時点に組合せます。ここで上着とズボンの色違いが出るのです。ロット管理がまずかったのでしょう。
この頃から平二本のわさび傷や目飛び、環止めの針荒れ生地荒れなど欠点の言葉が沢山ありましたね、懐かしいものです~。

子供のパジャマはその後、キャラクター商品とか言って昭和46年頃「ムーミンシリーズ」に移りました。
ムーミンは「カルピス子供劇場?」とかテレビの連続童話で可愛いお話です。
現在も良く見かけるものの、その最初の事ですね。
前身頃全面にムーミンのプリントを置いていました。
プリント屋さんが大阪の長柄橋の近くにあって、加工出しするのです。
そうそう、この頃昭和46年春桑本茂樹専務が入社されました。19歳か20歳だったでしょう。和歌山県の田辺の高校を出て大阪の会社に一時勤められていたが、何かのご縁で鳥取西村メリヤスに来られたのです。
十三の大阪営業所に入り、私と一緒に仕事をすることになりました。
だから桑本専務とも長いお付き合いになります。35年間かな~どうもありがとう!
そんなわけで桑本さんは社会経験もあったので、早速子供パジャマの担当になり、プリント出しの毎日となります。
プリントは一枚いちまいを枠にはめ、一色づつ塗って行く。十色あれば10回刷毛で塗るのです。そして乾燥させる。縫製から比べると熱くて汚くてきつい3Kの仕事でしょう。
プリント屋に元やくざ屋?かと思うような恐ろしいお顔の職人のボスがいました。
私は苦手だったのですが、桑本さんは仲良しになっていました。職人のボスと仲良くならないと、仕事を後回しにされたり、なにかと文句が増えるのです。
今も昔もコミュニケーションには苦労しますね。

ムーミンのシリーズから「母を訪ねて三千里」など「リトルワコール」のブランドで子供ものは続き、昭和50年「野球パジャマ」が発売されました。
プロ野球のユニホームを真似たもので、やはりプリントで縦じまのタイガースの文字も入りました。もちろん巨人など全球団がありましたよ。
野球パジャマはとても人気があり、継続されました。~現在もあるのかな?
版権の問題や類似商品が作られ中止されているかも知れませんね。
2~3年して、アメリカンフットボールシリーズがありましたが、売れ行きはあまり芳しくなかったと思います。
大人のナイティは止めたが、リトルワコールは北条や名和で続きました。
いつまで続いたか、この辺りのことは桑本さんが詳しいことです。

トリーカの現在はブラジャーが多いですが、昔はいろいろ何でも扱ったのですよ。キルティングのガウンやウール地厚手のローブも一時縫ったものです。
もちろんワコール以外では、メリヤスの肌着もあったし、ポロシャツもあるし、輸出製品もあります。これら全てが渾然として動いていたのです。
工場は大変だったでしょう。

ミシンも裁断も仕上げ方法もみんな違う。ご苦労をおかけしました!

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2006. 4. 3 高田

第33話  「ランジュ初めのはじめ」

「ランジュ初め物語と対ワコールビジネスの歴史的決断のとき」 


最近のニット製品、インナーウエアは年間何枚ぐらい生産しているのでしょう?
ワコールの「ランジュLinge」が発売されたのが1972年、昭和47年の秋ですが、縫製の引合いが来たのは子供パジャマと前後して昭和45頃と思います。
「メリヤスものは鳥取西村に頼め!」の時代だったのですね。
ランジュはワコールのランジェリー部門が、袖付きスリップ・ウインタム、
ブラスリップに続き市場に新しく提案する新商品でした。
振り返って見れば、この頃はランジェリーの新世紀だったようですね。
それまではスリップ、ペチコート、ショーツ、などに限られていた市場に
ワコールはカップ付き、袖付き、ニット製品などと次々に新しい商品を送出した時代です。
女性の肌着としては、男性の肌着と同じ様な丸首のメリヤス肌着か、ネック周りや袖口にピーコット縫い飾りの「スイート」と呼ばれるものしかなかったと思います。
そんな時代に「おしゃれ肌着の新製品で、ウレタンの細糸を挿入した丸編みを使い、かなり大量に売る積りだ。鳥取西村メリヤスで縫えるか?」と言う引合でした。
縫製にはメリヤス用のミシンに加え、「メス付き平二本ミシン」が必要です。
本体の丸編み生地にもウレタンが挿入されていて、二本針オーバーがかなり要ります。しかも生産数量も多く3ヶ班展開くらいを必要としました。
メス付き平二が六台くらいは必要でした。
ミシン担当の人はメス付きのミシンがある事は知っていましたが扱った事は無いとの事。
ミシンを六台も購入する事は、当時大きな問題なのです。お金が要ります。
しかもその仕事が将来も継続される保証はありません。売り出して見ないとわからないのです。売る人も未経験の新型商品であり、その生産依頼なのです。
この話しを持ちかえると、宗安社長と西村会長の間で少々激しいやり取りがあったのを記憶しています。

「2ヶ月余りの生産に六台のミシン投資はやりすぎだ」「その先は不明とは虫が良すぎる」「細く長く生産すべきだ」と西村会長の意見。
さらに「このところワコールの取引きが増えすぎている。一社に集中が過ぎる」と反対されました。特にこの集中度が問題だったと思います。
この頃すでに縫製班の半数近くをワコール製品が占めていたでしょう。
そもそも企業経営の原則から言えば、通常一社にかける最大比率は1/3まででしょう。
西村会長の意見は当然の正論ですね。
若い私が口を挟む立場ではなく、ただ営業担当者として「この注文はやりたい。ワコールから頼まれた」と言いながら、お二人の側で聞いているしかなかったものです。
2~3日置いたかも知れませんが、最終的に宗安社長は「やって見よう」と西村会長の反対意見を押しきられました。
ミシンは当然購入したと思います。

私は「トリーカがトリーカの命運をワコールに賭けた時がこの時の意思決定だった」と今でも思っているのです。
まだ資本関係も無く、取引の歴史は他社に比べると浅いときの宗安社長の大きな決断です。
取引き比率が大きく偏ることが、経営上の判断を要することで、その時もその比率を超える不安に対する決断がされたわけですが、これが今日まで続くニットビジネス、さらのワコールビジネスに成長する事を予測されていたかどうかは判りません。
ともかく、この日の決断が、比率を超えてもやる考え方が、こんにちのワコール90%以上の取引き実現への導入路であった事に違いはないと思います。
あの時常識通りにワコール比率をセーブしていたら今のトリーカは無いでしょう。
成長変化する企業経営には、時にこのような大きな曲がり角での「決断」がありますね。それも後日そう思うものや、或は決断当事者はカンや予測をもって、決断しているのかも知れません。
この後、ブラジャー等に品種を増やしながらワコール占有比率は増え続きますが、この後々にも、比率増に対する懸念の意見のやり取りが有ったのかどうか、私は知りません。
私は受けられるだけ欲張ってワコールの注文を貪欲に引き受け、その後に生産場所を探す事にしていました。

ランジュはその後クオリス、ニューインナー、ニットインナー等と呼ばれながら年間300万枚に至るワコール、ウイングの大スター商品に成長します。
ランジュはその当時の肌着とウインタム等との新しい中間的商品として発売されました。
当時の肌着やメリヤス下着の色は白が圧倒的に多く100%に近かったと思います。
その中でトリコット生地のスリップやペチコート、ショーツはピンク、サックスなどカラフルにありました。
それに対し新製品のランジュは、白、エンジ、紺、赤、黒、など色合いが異なり新鮮でしたね。
形もノースリーブ、半袖、長袖、ショートパンツなどで5点で構成し、8cm幅ほどの高価なストレッチリバーレースを平二本メス付きミシンで縫い付けました。
上の手書きの絵のようなものです。(~パソコンマウスで描くのは難しいよ!)
これらはベーシックスタイルと呼ばれ、その後翌年も続き、さらに広幅ストレッチラッセルレース使いのロマンチックグループとか呼ぶ総レースの製品が加わり、現在に至る長寿命の製品になりました。

生産は北条工場をメインに展開し、不足すれば名和・西伯等どこにでも広げました。
四国やいろんな所に外注工場を探し、そこにも頼み、大島さんと組んで縫製指導に走ったものです。
それらの中で、とある四国松山の工場に居られたのが若き野田 實氏、現タクト野田社長です。
あの頃の野田社長は一日20時間ぐらい働いておられましたね。嘘のようだがほとんど夜中も働き、工場の生地の中で寝ることも度々だったらしい。
裁断からミシン修理、段取りまでされて、すごいスーパーマンでした。
勿論今でもすごく働いて居られますがね。

北条は年々信用を積み、今やワコールのニット製品の絶対的信頼工場だと思います。
皆さんのご苦労が高く高く評価されて、本当にうれしい事です。
北条しか出来ないと言う「オンリーワン工場」になっているのでしょう。

ランジュに関する失敗談も話しておきましょう。
その頃は営業担当の私は材料セットから仕入支払チエックまでみんなやっていましたが、一番大事なのはミシン場を止めないように材料を投入することであり、全工場の材料状況、縫製進捗、納品把握、全部一人でやっていました。
全部見ていましたが量が多くて実際には抜けが多かったと思います、毎日まいにち工場を停めない為の仕事に追いまくられていたのです。
ランジュの生地は伊藤忠口座で染色工場から直接縫製工場に投入され、入日記は廻りますが、金額の入った納品伝票は3~4ヶ月も遅れて来ていたのです。
つまり「仮仕入」が沢山発生しましたが、その頃は「未仕入」と言って、伝票処理がずさんでした。
ランジュ100日戦争(当時はそう言ってた)が終わってみると、北条の教室いっぱいのランジュ生地が残った事が有ります。何百反有ったのでしょう?
当然出目もあったのですが正確なところはわかりません。支払はそれでも出来ました。
残った生地は金額で数百万円以上になり、ワコールにも正直に話し、その後2~3年かけて少しづつ消化しました。
置き場所が無くて総社工場に積んだ生地も有ります。
不良材料在庫そのもので、今でも私の心に苦くて恥ずかしいお話です。
みなさん真似しないで下さいよ。
だからきちんとした管理システムが要る事になるわけですね。
杉山工場長が入社される以前だったか、以後だったかなぁ~!
覚えてますか、杉山さん?

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2006. 4. 4 高田

第34話 「トリーカ」名付けの瞬間

「トリーカ」名付けの瞬間



「トリーカ」と言う社名に、皆さんは勿論慣れておられますね。
人の名前と同じ様に、会社の名前は大切です。
でも、自分の会社ながら、トリーカの社名を電話などで他の人に伝えるとき苦労されているかも知れません。
トリとイカになって、鳥いか?など焼きイカと勘違いされて困ることが有ります。
そうならない様におねがいしますよ。
でも、「愛するトリーカ」だから、社名の生まれた経緯由来はよく知っておいて欲しいものです。

「鳥取西村メリヤス株式会社」は昭和36年4月に設立されたお話は何回もいたした。
親会社である「西村メリヤス」の経営破綻が東京オリンピックの時=昭和39年秋に発生し、連鎖倒産が危ぶまれましたが、沢山の皆さんのご支援を受け、昭和40年の新春から「新生・鳥取西村メリヤス」として、宗安新社長のもと再スタートしました。
ベンベルグ・ボンショーツ、トレシャツ、輸出用シエルブラウス等と共に、ワコール製品の受注も拡大し、兵庫西村メリヤス、岡山西村メリヤスの別会社も新たに設立されました。
つまり、倒産から再生の波を被りながらも、その混乱を乗り越え、徐々に信頼を得て、順調にビジネスが拡大して行ったのが昭和43~45年頃であったでしょう。

この頃本社は鳥取市に移り、経理部門を置き、鳥取銀行から役員として平木 敬さんの派遣を受け、資金的な支援と監督下にありました。
一方、宗安社長が常駐される大阪営業所は、経理関係以外の実質本社機能を持ちながら、対外的営業部門と全体工場管理部門など全社の中枢機能を持った動きをしていました。
その場所が旧西村メリヤスの十三工場跡であって、そこは「西村メリヤス株式会社」として、西村洋二社長に残された資産であった事もお話しました。
西村洋二・西村メリヤス社長から場所を賃借して鳥取西村の大阪営業所が在った訳ですね。そしてなお西村洋二氏は法的には株主でも役員でもありませんが、鳥取西村の会長と呼ばれていました。

西村会長は我々鳥取西村のビジネスに関わる以外に、西村独自のビジネスもされていました。当時は若い私には良く判りませんでしたが表面に見えるビジネスはレストラン経営であったり、染色機器の製造であったりしていたと思います。
同じ屋根の下で複数の会社が存在し、永年のオーナーが居れば、金銭的な融通の場面も発生したかも知れません~でも、これは私の勝手な想像ですよ。
西村会長と宗安社長の考え方に関しては、当初は上手く行っていても、行かない事も在っただろうと思います。
会社の元所有者とか、元オーナー社長に在った人の立場の考え方と、経営者として現在の会社経営を預かる立場の考え方に、いささかの違いはあったでしょう。
この違いは、いずれが正しく、何れが間違いと言えるものではなくて、会社の在り方や期待・目的などに関する基本認識の違いであったでしょう。いわゆる立場の違いになります。
資本と経営の分離や所有と経営の分離とか言う言葉があります。
出資者=所有者・オーナーと、社長=経営請負人の関係なのですが、西村会長の場合はそれに「元」がついていたから現実認識に加え感情が絡んだと想像するものです。
西村個人の会社の延長線上にあると言う意識はなかなか消えなかったと思われます。
何事も食い違いの傷口は小さい時に対処しないと命取りになります。
宗安社長にとっては、若い頃からの上司である西村会長との会社経営に関するいさかいは心情的には複雑な思いがあった事と思いますが、何時しか「トリーカの為に」決別を決心されたのだろうと推測致します。
この辺りは恐らく厳しいやり取りがあったと思われますが、これ以上私は知らないし、言えません。
「烏取西村メリヤス設立・創業の思い」や「西村メリヤス経営破綻の経過」、若い頃からの「恩顧に報いる支援」さらに「会社とは何かと言う考え方」「社長としての責任」等々宗安社長は「情と理のはざま」に苦悩されたであろうと思うのです。
私は以前宗安社長に言われた事があります。「高田君、迷った時は社員の事を考えろ」と。私はこの言葉をその後づーっと大切に持ってきましたが、まさにこの判断基準で宗安社長ご自身が決心されたと推察するのです。

以上の内面的なことは全て高田個人の想像です。
新生トリーカの誕生には、想像ではありますがこのような歴史の背景が潜んでいたであろう事は感じておいても良いでしょう。
ともかく、昭和36年創業以来馴染んだ西村メリヤス十三工場の場所を離れる事になります。
場所を離れると共に、良きにつけ悪しきにつけ西村メリヤスの呪縛から脱出する事になるのです。

確かな時は忘れましたが、近くの十三地域でしたが別の所に引越し、更にその後、そこを倉庫と寮に残して、やがて蝶理の関係する本町に営業所が移されます。
大阪の真ん中で御堂筋から一筋入った本町です。繊維関係の会社の場所としては一流の地区ですが、実際は裏通りの倉庫の二階であって、そこを営業所の事務所にして一年余り居たと思います。
この時「トリーカ大阪営業所」の看板を掲げたのです。昭和47年春の事ですね。
御堂筋、心斎橋筋、どぶ池、本町、堺筋など繊維の商売のど真ん中、繊維関係のビジネスには「聖地」みたいなところでしたよ。
私は生涯でこの時だけ電車~地下鉄の通勤をしました。なつかしい!
そこで「トリーカ」としての、新たな出発があったのですが、我々現実業務に携わる者には、社名変更に馴染むことのみが課題で、とかくの問題は無かったと記憶しています。

「鳥取西村メリヤス」と言う社名は、その鳥取の地と親会社である西村メリヤスの組み合わせであってなんら不思議のない社名でした。
西村色を離脱して新社名を考える時、検討された点は、鳥取西村に馴染んで10年の期間を経ている点と、その頃からカタカナ社名が増えている事でした。この2点をからめて新社名を考えられたと思います。
カタカナ社名にはすでに「ワコール」が社名や字体にイメージとしてあり、実際社名をどうするかワコールとも事前に相談しています。
鳥取西村メリヤスから発想されるのが「トリメ」であり、それは 鳥目につながってまずい、そこでそれにワコールの語尾のールが付いて「トリメール」の案が出ました。それ以外に「トリエース」「トリオール」そして「トリ カ」などあり、人間が考えても決まらないので、結局神頼みとなりましたね。
トリカのカは、なぜカだったかは覚えません。単純に語感だけだったと思います。

社名候補を書いた相談のメモを持って宗安社長が京都の晴明神社にお伺いを立てに参られました。
京都、大阪の人は良く行く神社です。
標題の図をクリックして拡大して見て欲しい。
「沢山の社員が働く縫製企業として相応しい会社名をお教え願いたい」とメモを差し出されましした。
メモには株式会社トリカなど四ツの社名が並んでいます。原案として神様に見てもらったものです。
「この三案は不可×、トリカは良いが、これがさらに良い」と即座にご神託、
ご託宣があり神様がメモに筆書きで加筆されたのが「トリーカ」の文字です。
この世で最初に書かれたのトリーカの文字がこれですよ。
「トリーカ」名付けの瞬間です。
「多くの人間が集い、互いの力を合わせ物事を成して行くには、社名に長音“―”が在ると人の力が結集する」と説明されトリカに“ー”が加えられました。

宗安社長から「高田君、これに決めたで」と筆書きのトリーカの文字を示されました。この時のメモがその後40年近く私の手元に残っていたのものをコピーしています。
次の日ワコールに報告に行きましたが、神様のお決めになったことですから誰も異存はありません。
その後私は社名を説明する時は、「会社発祥の地である鳥取のトリ」を説明し、“かカ”の文字については漢字の“ちから力”が変身したものだとし。長音”ー”は衆智を結集するものであり、「大勢の社員の力を一点に集結したいと願いを込めた社名」と説明しています。
上の図の枠内の説明ですね。
どうでしょう皆さんご納得いかれたでしょうか?
良ろしければどうぞ皆さんもこの要領で説明して欲しいと思います。
鳥とイカ烏賊などと冗談にも言ってはあきません。
社名は愛し大切に致しましよう!

昭和47年2月20日「株式会社トリーカ」として社名=商号の変更を申請し2月22日付けで登記されました。上の登記簿コピーの通りです。
同時に英語の文字を決め、社名の字体・書体は15度ほどの流体的斜めの角度をもっています。
これは当時のワコールの文字がその様になっていたのを真似したものです。
会社のマークも以前書きましたが、英字の「T」が四方八方に拡大成長するイメージから成っています。
会社カラー(コーポレートカラー)は春を迎えた大山の若葉の黄緑色となっています。関西ペイントの「PS/82-10678」マンセル値9.6GY4.6/9.7となっていま。
だから看板は当然グリーンであり、制服はグリーンで封筒も屋根もグリーンとなっているのです。(その後変わっていますが知っておいて下さい)
グリーンは平和や若さ仕合せを象徴する美しい色ですね。大切に愛用して行きましょう!

新社名に合わせ、既に設立されていた「兵庫西村メリヤス株式会社」と「岡山西村メリヤス株式会社」は「鳥取西村メリヤス株式会社」と合併しました。
それぞれトリーカの鳥取各工場や兵庫工場、美作工場となりました。
資本金4500万円の新会社として「株式会社トリーカ」が発足したわけです。
しかし、この時点で蝶理の持ち株は68.4%もあり、銀行も勿論持っていましたがワコールはゼロでした。
トリーカの株主構成や資本構成はこの後時代の波に影響されながら段階的に変化して参ります。

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2006. 4. 5 高田

第35話  「トリーカ概略年表」

「トリーカ概略年表」

トリーカ概略年表

実はこのむかし話は、ワープロで書き出してタイトルをつけ第何話としています。
良く解りませんがインターネットを利用したブログとか言う方式らしいですね。
日付け入りの日記様式になっているので、一日一話の積りで張り出しています。
ワープロの原稿は少し先行しているので、溜めておいて名目その当日に張り出せば良いのですが、日付けに拘らずに出来たら前倒しで出しています。

そんなわけで実際の今日は2006年4月3日(月)なのです。
世間の多くが新年度開始の日で、トリーカも第47期のスタートの日と言えます。
今朝も竹中社長が朝礼で挨拶されていましたが、一年は過ぎ去れば早いもので、向かえる身には期待も不安も入り混じるものです。
この昔話の冒頭に書いきましたが、トリーカも満年齢で45歳と何ヶ月と言う事になりました。
第46期も無事終えて私は「ありがたいこと」と心から思います。
歴史を話しているから余計感慨が深いかも知れませんが、この厳しいビジネス環境の中で、ともかく生きて一つの年度が越せることは、実績の石を積み上げることで、ともかく一つ積上げる事が出来たのは嬉しい事だと感じるのです。
我々人間の努力は当然ですが、幾ら努力しても結果の出ない事も多い時代に、
無事1000人のトリーカ丸が航海を続けられているのは、神様のご支援があるからに違いありません。「人事を尽くして天命を待つ」と言いますが、天命がトリーカを許してくれているのでしょう。とてもありがたい事なのです。~と私は思っています。

今日はトリーカ全社で28名の新入社員が居られるとの事。
10時からTV入社式が行われようです。ここ3~4年いつも20~30名の新鮮な社員が入社されています。これも本当にありがたい事ですね。
昔はほとんど中途入社の方ばかりで、まして学校を卒業され初めて働く場所がトリーカとなる方など先ず居ませんでした。
真っ白なハンカチを持って入社して来てくれる28名の方たちの期待に添わねばなりません。新人達は現在のトリーカを見て、自分の将来を託してくれているのです。
彼等のハンカチを汚す事のない様に、先輩の私達が土俵整備をしなければならないのです。本人は張りきっているから大丈夫ですが、受け入れる事はより大きな責任を負う訳でもあります。

さて、先般トリーカの歴史を概略お話したが、今日は簡単な年表を見て頂きます。
全社的な観点からまとめていますので、個々には漏れている事も多いがお許しを願います。
取りあえず一度眺めておいて、必要に合わせまた見返して欲しいと願います。

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2006. 4. 6 高田

第36話  総社工場~事始め

総社工場~事始め、みどり保育園など 

前回のトリーカ概略年表をご覧戴けたと思います。
まだ、全46期のうちの当初10期を過ぎ様としている頃です。
新しい社名の「トリーカ」が生まれて、しばらくはその名前に馴染む時間が要りました。
大阪営業所も本町に移転していたが、その頃でも宗安社長が夜遅くまで書類を作成されていたものです。
つまり、月次の経営計画であり、借金の返済計画であり、手形の安全保証的説明や裏付けの為の、「生産売上計画」などを、蝶理や銀行に提出する必要があったのでしょう。
私は直接作成には当らなかったのですが、「高田君来月の北条工場の売上はどうや?」とか「集金の見こみは?」など時折、訊ねられていた記憶があります。
営業担当としては通常工場の加工ベースで見ており、まして最大 の関心はワコールに約束している「納期」だし、その為の「縫製進捗管理」であり、その為の「材料セット」を必死で進めており、更にそこに品質のトラブル等 が発生すると消火に手間取ります。実際には常に何処かでトラブルが発生し、生産計画や、日々の行動予定が狂いました。
だから工場採算や資金回収までは見られない時代でしたね。
営業担当としては工場に対する仕事の「量的確保」を如何に最適に行うかがポイントとなっていたのです。
しかし、蝶理にしろ鳥銀にしろ、トリーカの経営状況はまだまだ心配な時代で、商社の営業担当は前向きでも、お金の担当部門は厳しくチエックをかけ、説明を求めて宗安社長を責めていたのだろうと思います。
資金繰り表を横から眺めたこともありますが、10年間などの長期で借入を行い、延々と返済するスタイルになっていて、例えば兵庫分とか伯太分とか淀江分とかの借入があり、それらが重複しながらの返済計画が作成されていたのが思いだされます。
高い借入金利の時代だったし、大変だったと思いますよ。
営業所が本町にあった1年余りの期間、記憶に残る景色はそんな宗安社長のうしろ姿です。

本町に居た時前向きの記憶は、総社工場の開設です。
やはり蝶理の紹介で、「畳表を作る工場の空家を使わないか」と言う誘いでした。行って見ると高い天井の大きな建物で、柱は無いから使い勝手は良いとなり、決まりました。
別会社で「岡山トリーカ株式会社」として発足しました。
なぜ別会社にしたのか、色々背景が有ったかも知れませんが詳しくは知りません。
5年ほど後に会社は解散し、「トリーカ総社工場」となります。
社名はいづれにせよ実質的には、他工場と同じく総社工場として動いていました。
その頃は新しい工場はワコールの仕事を入れるのが前提のようになっていました。
当初は大人のナイティやローブみたいなものを入れたと思います。
ワコールで言うパーソナル部門の工場として発足したのです。
その後デザインショーツとか子供パジャマとか、色々入ったと思います。
当初は40~50人程度だったと思いますが、品種的に定まらずご苦労をおかけしました。
ずっと後の事ですがシャルレ社のスリップで成果をあげ、工場改修費用を全額稼ぐような順調な時期もありましたね。

総社工場はその後、昭和54年、人手確保のねらいで「保育園」を併設しました。
この為に社会福祉法人「吉備の国」を設立し、「みどり保育園」を開設し、その母親を社員として採用しようとしました。
当初はねらい通りかなりの数のお母さんが来て成果はあがったと思います。
しかし、そもそも社会法人は利益目的のものでは無くて、福祉を 念願するものであり、地域貢献がその設立趣旨とした精神であらねばなりません。敷地内に建ててもその土地は企業が福祉法人に寄付するものであって、だから その上に建てる建築物は岡山県や総社市などの公的支援を活用して建てるのです。
保育園の経営は総社市や県など認可団体に移ります。運営費用もトリーカがすべて負担する事は出来ません。
だから社員のみが利用する保育園とは出来なくなります。
時代と共にトリーカに働かないお母さんの子供が増え、やがて関連活用の効果を期待出来なくなって来ます。私設保育園でないのだから仕方がないのです。
現在も法的には勿論トリーカが関与できない関係が続いています。
だが、その発足の由来は記憶にあるし、敷地はトリーカが寄贈したものなのです。
何より「みどり保育園」と言う名前に、トリーカの会社カラーのみどりが残され、工場長は福祉法人吉備の国の理事として経営に参画し、友好関係が続いて何人かのお母さんが社員に居られます。
あまり企業側の都合を期待してはなりませんが、地域社会のためには貢献していることでしょう。

その後、平成8年、総社工場はトリーカの先端をきって「外国人研修生受入事業」をスタートしましたが、この件は別にお話し致します。

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2006. 4. 7 高田

第37話  「大阪営業所~茨木移転」

「大阪営業所~茨木移転」

「大阪営業所」は本町の倉庫の二階に昭和47年から1年あまり仮住まいしていました。
この間に本格的な定住の場所を探す事となります。
その頃は何でも蝶理に相談しなければなりませんでした。
本町の倉庫も蝶理の関係で借りたし、移転先の相談も蝶理不動産部となります。
京都のワコールとの関係や、工場への移動運輸経路のこともあり名神高速道の近くをさがすことになりました。
宗安社長にご一緒して山崎のあたりも見に行ったし、現在の場所の近くで宮田町にも候補地はありました。
最終的に現在の本社の場所である茨木市東太田3-2-10に決まりました。
そこは水田でしたが、土地の所有者がトリーカの希望する建物を新しく建設して貸す事となり、蝶理に関係の深い東鑑倉庫経由で契約成立しました。
昭和48年6月に本町から引越ししました。
周りは水田で、二階の窓から眼の下の溝に棲むザリガニが釣れたものです。
食堂があり炊事のおばさんが通って、寮生の食事や、昼は全員の昼食を作ってくれました。これはありがたかったのですが寮生が居なくなって昼食も廃止となってしまいました。
その頃からワコール関係も工場からワコールへの直送体制になっていたので、大きい荷物倉庫は要らなかったのです。10人余りの営業担当と社長総務部門がいました。
仕事はワコール関係ががほとんど占める事となり、私や竹中さんや桑本さんや丸尾さんが入れ替わり立ち代わりワコールや工場に走りまわる事になります。
場所が定まる事は、ビジネスも定まる事なのかも知れません。
このころ昭和48年月、初めてワコールの資本が入ります。
4500万円の資本金の内400万円8.9%をワコールが蝶理から買い取りました。
ビジネスの関係に加え、資本参加がなされ、より強い関係に入る事になります。

その後も、何回か営業所の移転が検討され、JR攝津富田駅前の小さなビルや、近くのみどり電化の奥に勧められる建物がありましたが結局見送られました。
「同じお金をかけるなら、生産場所である工場に使う」と言うのが、トリーカの考え方ポリシーであり、案件はその都度結局見送られたのです。
今にして思えば、このポリシーは良かったが、家賃の支払が続くのは如何なものだったかと反省している次第です。
営業所の人員も色々替わりました。いつ頃だったか女性が一人も居なくなった時があリます。
お客さんがあってもお茶を出すのは、当時新入社員の岩村真二君だったのですよ。
あまり良い景色ではなかったかなぁ~。

その後、平成4年、鳥取から本社と経理部門を受入れ、今日に至るまでこの場所がトリーカの中枢機能を持つ場所となっています。

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2006. 4. 8 高田

第38話  「裁断センターの興亡」

「裁断センターの興亡~トリーカの時代対応」

昭和47年に伯太工場は酒蔵の仮工場を出て伯太町母里の地に新工場を建て引越ししました。これで名和、北条、淀江、西伯、伯太の5工場が、それなりに整備され
社員も鳥取地区で500人以上となりました。
ツインジェリー、ランジュ、子供パジャマを中心にワコール製品でほぼ年間操業が可能となっていたのです。
田中角栄による日本列島改造論が叫ばれ、私達は「9号線改造論」とか叫びながら頑張っていたのですね。
あの頃はワコールでも量販店対応に、WIC・ワコールインターナショナルコポレーションが設立され、仕事量は強含みで動いていました。
ワコールでは昭和45年1970年日本万国博覧会の年に、韓国・タイ・台湾に生産工場の進出をされています。
国内では以前からある東海ワコールに加え、この年北陸ワコールがランジェリー用に設立されました。
昭和48年には長崎ワコール、新潟ワコールが相次いで設立されています。
世の中は第一次石油ショックとかでトイレットペーパーの買い溜めパニックが起きるなど狂乱物価と言われた時代ですね。

スリップ、ブラスリップ(ツインジェリー)、ランジュなど全工場で展開し、かなりロットがまとまって、今にして思えば大量生産・大量販売の良き時代でした。
「鳥取地区の全工場の裁断を集中化し、裁断効率・要尺集約をやろう」と言うトリーカの発案にワコールも賛成しました。
集中化が叫ばれた時代です。まさに行け行けどんどんの時代でしたね。
名和町西坪のトリコット工場の敷地は広く空いており、野球のグランドに使っていたが、そこに「裁断センター」を建てました。
新しい考え方に基く工場建設です。
トリーカとしては野心的行動であり、多額の設備投資も要しました。
国道9号線もその頃ルートを変え、新たに丁度裁断センターに接面して開通しています。願ったりかなったりですね。
長い延反台を数台並べ、バンドナイフも並び順調に転換作業は進みました。
各工場はどちらかと言えば反対意見でしたが、社長以下ワコールの大方針に逆らうわけにも行かず、時代の流れかと従った感じもありますね。
裁ち下が各工場に運ばれましたが、他工場で裁断した裁ち下には、ミシン場で苦情も出ます。自工場で裁断しても苦情が出るのだから当然です。
裁断センターの所長には鳥取地区統括役員の土井 昇常務が就かれ、工場の不満をある程度強権で押えられたかも知れません。押えながら当然作業の改良努力ももされました。
新しい試みにトラブルの出るのは想定内であって、それでも揉めながらも逐次解決、改善されていったものです。
名和工場も小学校跡の工場から、裁断センターの二階に引越ししました。
名和小学校跡は名和町に返還し、その後町役場や農協が建ち町の中心地となりました。

裁断センターは平成に入るまで、丁度日本のバブルの時代に合わせ活躍しました。
しかし時代は変化します。
一時「鳥取管理センター」構想と言う集中管理センター的構想に裁断センターを脱皮させる案がワコールから求められた時期がありました。
バブルがはじけ、生産ロットも細分化され、素材も高度化し、少ロット、ORクイックデリバリーが求められると、裁断と縫製工程に、より細かな連携プレーが必要となります。
一人の工場長による材料・裁断・縫製・出荷まで「自己完結型生産管理」が必要とされるべき体制の時代になったと感じ、皆さんと相談するとその方が良いと意見がまとまり、「裁断機能の工場復帰」を進める事となりました。
裁断センターの使命が時代の変化と共に終わりを告げたことになるのです。
ワコールはあまり賛成しなかったのですが、トリーカの意向を強く出しました。
集中管理は大阪営業部門の強化でカバーする基本方針を持ちました。
昭和63年から平成元年の頃であったでしょう。
まさに経営は時代の変化要請に応えなければならないと言う事例だと思います。

この後、「工場の自己完結思想」から発展し、「各工場の自己責任・自立思想」
から~「工場分権思想」にたどり着き、更にその後の「工場別成果主義給与体系」など、一連の経営改革や労務改革を迎える事となリます。

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2006. 4. 10 高田

第39話  「トリーカ労働組合」

「トリーカ労働組合」

労働組合に関する事を私がとやかく言える立場ではありません。
労働組合の方々で、それこそ初め物語があると思います。
だから表面的な思い出は話せますが、それに合わせて私なりに感じていた事を延べさせて戴きたいと思います。

西村メリヤスにも、鳥取西村メリヤスにも労働組合は以前から結成されていました。
ちなみに東西メリヤスにもあって、私も委員長を務めた時期もあります。
先般の昭和40年8月付け「社内報だいせん」にも社長、工場長に並んで労働組合長さんの文章も載っていますね。
ただ言葉は悪いが当時の組合は会社の意向により作られたご用組合的なものと言えたかも知れません。
しかし社員の意見代表者として十分役目を果されていたと思います。

昭和45年春、鳥取地区の工場に「繊維労連トリーカ労働組合」が結成され、またほとんど同時でしたが兵庫・美作工場に「全繊同盟トリーカ労働組合」が結成されました。
どちらもそれぞれ繊維労連や全繊同盟と言う全国的労働団体の指導を受け、そこの組織に加盟して結成されたもので、突然の公表と赤旗の列にに驚いたものです。
当時は世の中全体がその様な時代だったのでしょうが、鳥取など地方の縫製企業の組合結成とその連携団体が活動し、労働者の地位の向上を掲げ企業側とかなり強く交渉が繰り広げられました。
トリーカの各工場にも赤旗がなびき、賃上げ交渉とか時間短縮とか労働条件の改善向上の要求が出され、スト権が確立され、実際にストもありました。
営業担当の私としては、工場がストップすると生産に遅れが生じ困るわけですが、ワコールも原因がストなら仕方ないと理解してくれた様に思います。
日頃は何のいさかいも無く同じ職場で仲良く仕事をしている者どうしが、いざ労使交渉となれば立場を異にし、戦い争う。
組合活動とは言え自分の生活空間とは違う感覚がしたのではないでしょうか。
組合の上部団体から応援があったり、他の近隣企業の労働組合からも参加していた事もあります。
会社側も、組合側も何れの側も、代表して交渉担当窓口となって動かれた方々は複雑な感覚の中で大変なご苦労を重ねられたことだと思います。
昭和50年代は今にして思えば世の中の景気も良く、労働条件も年々改善され、
日本の法律としても労働時間や女性の職場労働に対する配慮もなされた時期です。
結果としてトリーカもそれなりに良い方向に変化出来たと思います。
かなり後の事ですが女性の職場の良い事例として北条工場がNHKのTV番組に取り上げられた事もあったと記憶しますが、この件は杉山工場長さんが詳しいでしょう。

昭和49年新たに組合結成され、繊維労連と全繊同盟、そして無所属の3者に分かれながら、トリーカの労働政策や団体交渉も進められ、会社側としては極力同一対応になるよう努力されました。
その後に生まれた九州地区の長崎・肥前工場も段階を経て最終的には全繊同盟に加盟されましたね。
つい昨年(2005年)の暮れ「UIゼンセントリーカ労働組合」に両組合が統合され、永年の1企業2組合体制に終止符を打たれました。
これも大変なご苦労だったと拝察し深く敬意を表したいと思います。

昭和50年代は世の中全般がその様でしたが、トリーカにおいても労使交渉とは労使対決場だと言う意識が鮮明だった様に感じます。
平成に移り、いわゆるバブル崩壊と共に國際価格、価格崩壊、過剰債務、過剰設備とか好景気の裏返しが来ました。
縫製業界はそれ以前から中国など海外進出も多く、その海外からの製品還流で自分達の首を締める悪循環に陥っていました。
国内の店頭にはつぎつぎと低価格商品が溢れ、なお商社の倉庫には三年分の在庫商品が残っていると言われたものです。
上がり続けたワコールの加工賃ベースも停滞から引下げに変り、國際価格の名のもとに海外加工賃との比較がなされ、中国価格にトリーカも対応するよう求められました。
工場を存続出来るのか? 国内で採算が合うのか? トリーカも中国進出をするべきか? トリーカは何の為に在るのか? 等々考えさせられる局面でした。

平成元年だったと思いますが、トリーカの第30期を迎え、生き残る為には労使が力を合わせ自分達の職場を守る決意と行動をとらねば、赤字工場では早々に工場閉鎖を迫られる時代だと考えました。
その頃は労働組合の委員長と会社幹部が共に行動し生産性向上への訴えをするなど考えられない時代でしたが、私は当時の遠藤賢二委員長と二人で鳥取地区の工場を巡回し、二人で演説しお願いした記憶があります。
このころから、労使対決ばかりでなく労使協調して自分達のトリーカ丸を守る方向へ転換し始めた時期だと思います。
垣根の中の争いより垣根の外からの荒波に力を合わせて対抗しなければ生きられない時代になったのです。
バブル崩壊後の現在まで、国内の縫製業界は大幅に整理されています。
特に地方の工場はほとんど閉鎖・倒産・撤退が続き、最盛期の一割の工場や社員しか残らないと言われています。

労働組合の使命は「社員の生活を守り向上させる事」だと思います。
一方毎期の経営方針に竹中社長がトリーカの使命として、トリーカは「“女性美支援のものづくり”を通じて、社会に貢献し、会社の成長発展と、社員の幸福を追求します」と書かれています。トリーカの経営理念と言えるものですね。
トリーカの場合、組合も会社もねらいは同じ「社員の幸福実現」です。
トリーカ丸を沈めてはなりません。
21世紀も労使が力を合わせて生き抜きましょう!

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2006. 4. 11 高田

第40話  「ガードルの商売など!」

「ガードルの商売など沢山あった! 」

何回も申し上げる様ですがこの「むかし話し」がどうしても、ワコール関係が主体となってしまう。事実ワコールの仕事比率が年々増えて来ていたからそれほど
間違いではないのですが、その他の得意先や商売も勿論あったのです。
ただ、私が担当していなかったので記憶が薄く書けないわけです。
ベンベルグショーツは当初ありましたが終った時期は全然解りません。
日本メリヤスの輸出用シエルブラウスもずいぶん大量に流れた時代がありましたが、為替レートの変化と共に難しくなったと思います。
日本紡績ニチボーのVCと言ってたと思いますが、トレーニングシャツも名和工場などで昭和40年代どこまでか続いていたが、やはり終わりの記憶がありません。
これ以外にトリコット工場の編立に東洋紡のエスパのお話はいたしました。

エスパについては、縫製・製品化の話しもありました。詳しくは判りませんが宗安社長がレナウンの方と共にアメリカまで飛び、「リリーオブフランス」(フランスの百合?)の会社に行ってブラジャーの研究視察をされた事があります。
「非常に型紙を大切にする」
「ミシンよりアタッチメントが企業秘密だ」
「個人のサイズ測定データを保管し、次回オーダーは計測しなくても電話注文で
受けられる」
「アメリカは広いので通信販売が盛んだ」
等の話しが会ったことを記憶しています。
製品サンプルを見たような記憶がありますが確かではありません。
昭和40年前後だったと思います。
つまり、東洋紡とレナウンを絡ました関係の案件で、トリーカもブラジャーの企画販売や縫製を行う会社になる可能性はあったのかもしれません。
もしやっていたらどうなっていたのでしょう?
ワコールのライバル会社になっていたのか、でも確かその後情報を渡したレナウンが結局ものに出来なかったわけですね。技術導入は難しい事なのでしょう。
この話しはこれだけの記憶しかなくて申し訳無いことです。
しかしその後も宗安社長はミシンの「アタッチメントは企業秘密にしろ」と度々言われていました。この時のイメージが続いていたと思います。
エスパの編み立ては、西村メリヤスの倒産を受けその後早い時点で切り上げられました。四国の徳島県三本松の東洋紡工場に編み立て工場が出来て移転したと聞きます。
三本松は白鳥地区と言う輸出用手袋の産地の近くだったと思います。
東洋紡は80~120番手などという極細の綿糸を紡出し、ダブルトリコットに編んで、肱まであるような輸出用婦人手袋を作っていたのですね。

パワーネットの編み立てが、エスパから日清紡の「モビロン」に移りました。
東洋紡から日清紡へとライバル会社に上手く転換出来たものだと思います。
ちなみに日清紡モビロンの後にやはりライバルの旭化成に転換しています。
蝶理の支援があったのでしょうが宗安社長の高度な営業戦略の成果だと思うものです。
モビロンパワーネットでは、製品化して販売もいたしました。
こちらは竹中社長が営業担当の期間が長いのです。二人で一緒に走ったりもしました。
その頃滋賀県の彦根地区はフアンデーションの産地と言われていました。
さざなみ産業とか今は無い会社でガードルを買ってくれていましたが、ある時大量に発注するから35円で縫えないかと言われた事があります。
「代金はキャッシュ払いだ!」と強調されます。単価もさる事ながら、現金払いを強調するのは当時の商売において「現金支払い」の魅力に負ける会社が多かったと言うわけですね。さすにがに35円の商売はお断りしました。
モビロンガードルの商売は、京都にも得意先があり、そこにも売ろましたが、その店が倒産したり、その後そこの社長が鳥取西村の社員になったりしたものです。
この方のつながりで福井県三方の漁村に西村会長や宗安社長が魚を食べに行き若狭工場を作る事になったりするのです。
この方のその後はあまり語れません。色々あったわけですよ。

モビロン生地のガードルは何年間かかなりやりました。丁度スリップの製品販売をやっていたように、モビロン使いのガードル製品を売って行ったのです。
ワコールにもモビロン商売は提案して、本命商品には取り上げられなかったのですが、特価品などでスポット採用されました。
ワコールは東洋レーヨン(東レ)のオペロンをメインとして、「タミーガードル」を昭和40年に発売されています。オペロンは米国ライクラ社のスパンデックス技術によるウレタン糸で当時最高の品質を誇っていました。~今でもそうでしょう。
ワコールのタミーガードルは「おなか引っ込む」の宣伝文句で販売され、フロントのダイヤ型カットパターンは國際特許まで取られたものですね。ハードタイプのガードルでした。

モビロンガードルは北条工場で縫ってもらいました。2~3年は続いたと思いますがツインジェリーやランジュが忙しくなって止めたと思います。
日清紡の編みたての仕事は「信友・しなとも」と言う名古屋を本 社とする繊維商社を仲介して商売していました。そこに長谷泰行さんと言う支店長がおられ編み立てでは、前に話した指を怪我した時のカットバンに使うテープ 状生地の商売や、縫製品の売り先、職域販売の紹介など色々お世話にもなりました。
一方日清紡はお金持ちの会社と聞いていましたが、すごく地味な会社でした。
我々がスチールのデスクに移行している時期に、昔ながらの木製の机や椅子を使っていましたよ。それが日清紡の本社だからすごいものです。
あの会社はすごい含み資産を保有しているとか言われていましたが、確かにそうだと頷けます。
この会社はバブルにも傷つかず健全経営をして、株価も高いですね。
モビロン商売も編立てを日清紡の自家工場に引き取られ終わりました。
その後旭化成に移行したのです。
旭化成については後日話す事もあるでしょう。

アシックスの話しがあります。
設立当初からニチボーのトレシャツをやっていて、スポーツ関連も得意先にありました。信友の関係で、編みたてとは別部門だったと思います。
JTOと言うスポーツのウエア関係の会社との取引きがありました。
その会社と、鬼塚、ジェレンク?のスポーツ三社が合併して現在のアシックス社が出来ているのです。
この三社合併の以前からJTOとの取引きで、スキーのアンダーシャツや野球のアンダーシャツなどの製品売り商売があり、トリーカからタクトに移り、重松惇部 長の担当で長い歴史があります。そう言えば野球のユニホームの工場を国内に作るかどうかの引合いなど有り、検討しましたね。最終的に中国生産に決まったよ うです。
現在はタクト野田さんでやっていますが、名和工場などでの縫製が発端です。
長島工場でもやりました。良い会社で取引の歴史は長いですよ。
一時は野球のユニホームの専門工場の引合いもあったようですが、結局中国生産に決定されたこともあります。
私は詳しく語れめせんがワコールより先行した取引き歴ではないでしょうか。
長いお得意先は大切にしなければなりません。
いろいろな事がありながら商売が継続されるのは、お互いが努力しているからだし、双方が健康体でなければならないし、相手を思いやる正しい精神だから続くと思います。
ありがたいことですね。
取引き量の多少はありますががそれは時代が決めること、永年のご縁は感謝し大切にしょう。

そのほかにポロシャツも一時りました。
ワコールのツインジェリーの仕事がなくなって西伯工場が丸ごと空いてしまう事態が生じたのです。
宗安社長の若き日の会社であるところの「丸松」のポロシャツを受けることとしました。
西伯の工場長は大島さんか窪田さんだったと思います。
ランジェリー屋がポロシャツに転換するのは大変でした。
えり付け前立ての角が上手く出来ないのです。
子供パジャマの前立てとは要求品質のレベルが違います。
そもそもポロシャツは外着であり、男性用が基準です。
全般に紳士製品は非常にかっちりした縫製を要求されます。
この点は女性下着と大きな感覚の相違がありました。
鴻池の丸松に何回も足を運び丸松からも来てもらいました。
「ワコールの製品を縫っている工場はもっとレベルが高いと思っていた」
「これなら我々もブラジャーに挑戦出来そうや!」と言われたのは悔しかった思い出ですね。
しかし我々も、縫製技術そのものは訓練すれば出来ると思ったが、縫製現場の管理技術は学ぶべき点も多かったと思います。
丸松ではその頃すでに出来高給管理を実際に運用し、個人成果のベストな個人が一番成果の出せる工程を選ぶ権利がある方式をとっていました。
有利な者は益々有利な工程に着き、給与も増える。その競争の中で毎日があり、脱落する者が当然あるが、工場の所在地が社員の採用に便利なところで補充は充分出来たらしい。ポケット着け、襟付け、カフス縫いなど安定工程が多くやりやすいのかも知れません。
勉強させられました。
確か一年足らずで西伯はブラジャーに転換したのではなかったかと思います。
工場の皆さんには回り道をさせて申し訳なかった。お詫びします。

昔はその他セーターなども少量ながらあったと思いますが私はわかりません。
この辺りは私は語れめさんがまた、どなたかが話せることでしょう。その時まで待って頂きたいと思います。
ともかくワコール以外も色々あったわけですね。それらを超えて今日のトリーカがあるのです。

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