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トリーカ昔物語

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2006. 4. 24 高田

第51話  「トリーカ本社のあれこれ」

「トリーカ本社のあれこれ」

「トリーカ昔話」も第51話を迎えました。
ここまでお付き合い頂きありがとうございます。
昔話は当初「はじめ物語」と名付けようかと思いましたが、そのように比較的「始めの事柄」を主題に書いてきたつもりですが、私の思い込みが入ったりして、やや内容がばらついていますがお許し下さい。
また何度も言いますが、いざ書いてみるとやはり私の見る一面しか書けません。
皆さんのお話を聞けばもっと広く、様々な話題を組み込めるのですが、まあその点はまた後日「加筆」するとか、是非別の場でもお話し願えるとか、頂けるとありがたいし、望ましいことだと思います。
そう言うことで、第50話まででおおまか昭和40年代を過ぎたようです。
昭和50年代に入ると、皆さんの中にもすでにトリーカに入社された方も次々と居られますし、一人ひとりに歴史が在るのですから、ますます「歴史の数」が増えることになりますね。
私の書けることは一面的なことになりますが、そしてまた、回顧録的お話しになりますが、お許しを願って続けて行きたいと思います。
第49、50話でタクトの設立に入っていよいよタクトが正面に出る頃なのですが、もう少し別のお話も申し上げて行きたいと思います。

今日はトリーカ本社関連のお話を致しましょう。
昭和50年頃と言っても、私は35歳です。営業の仕事で走り回っていましたから、あまり本社に直接関係することは少なく、従って薄いお話ししか出来ません。
トリーカの本社は、鳥取西村メリヤス設立時は名和町の名和工場内にありました。
とは言っても、名目的本社で、当然西村洋一社長は大阪の西村メリヤスの本社に常時居られるわけで、めったと名和工場にはいかれなかったでしょう。
当然主たる経営課題は大阪で意思決定されていたことになります。
更に、工場操業の前提となる営業活動や生産計画は十三工場の化繊課や内地課で立案しているし、日常活動は十三工場の管理下に在ったわけです。
だから、地域に対してとか、総務的事項の処理などの業務が主として行われていたのではないでしょうか。
そう言えば昭和40年新生鳥取西村メリヤスとして再スタートを切っても、大阪の営業所の社員は、名和工場のの健康保険に入っていたような?記憶があります。
あの頃からお金の問題はすべて鳥取銀行にお世話になっていたわけですが、新生鳥取西村になって、ますますきめ細かな銀行関係が必要だったのでしょう、鳥取市に「鳥取分室」と呼ばれていましたが、連絡事務所が置かれ、竹中弘至さんが常駐されたと思います。
あの頃は、鳥取銀行と蝶理のバックアップで商売が出来たのだろうと思います。
我々営業マンは必死で仕事を取ってくることのみに走っていて、工場操業もダンゴ運転になったり、集金も計画的に安定しているわけではありません。
資金繰りはその頃は勿論、ずいぶん後々まで苦しく、厳しい時代が続いたと思います。

その後いつの頃か調べていませんが、40年代の早い時点だと思いますが、分室でなくて、正式に本社を鳥取市に移転しました。
市内の本町通りとか言って鳥取銀行本店の近くに部屋を借り、鳥取銀行から平木 敬氏が来られその他3~4名で構成されていたと思います。
一階がエフワンの紳士服屋さんでその3階フロアだったと思います。
銀行に難しい話を持ってゆくときは、宗安社長が呼び出されたそうで、良く鳥取まで車を走らされていました。
その頃は勿論道路の舗装部分は少なく、国道と言えども殆ど地道でしたから冬などゴムの長靴が常識でした。
宗安社長は長靴にネクタイ姿でいかれたのでしょうが、夜飲み屋さんに行くと「九号線の工事屋さん」か?と良く間違えられたとか言われてました。
その頃国道九号線がようやく舗装され始めたころです。
また、夜の遅くに九号線を走っていると、赤碕のあたりで警察に 呼び止められ、「鳥取西村メリヤスの社長だ、鳥取まで帰る」と言ったら、「そりゃごくろうさんです、もう遅いから泊まっていかんせ、可愛い子もいます けぇ~」とかお巡りさんに進められたとか、世間は平和な良い時代だったのでしょうね。
私たちも時折本社を訪ねましたが、「常天のおすし屋さん」でご馳走されるのが楽しみでした。いつまでたっても食い物には弱いんですね!。

そして、昭和52年本社は、鳥取駅前の日の丸印刷ビル五階に引越しします。
鳥取銀行本店の移動に合わしたのかも知れません。トリーカの社名看板も出ました。
恐らく業績もやや安定し、社名もトリーカに変わり、ワコール資本の導入などの経過で、銀行や県内における評価も良くなってきたころでしょう。
本店所在地と言うのも一つの信用を得る条件とも言えますからね。
この頃でしょうか、瀧田孝友氏が入社されたり、更に後になりますが桑本茂樹専務が北条工場から本社に転勤されるなどあるわけです。
月次決算の様式が会計的なものから、標準工数による管理を基本とした「管理会計的資料」に切り替わるのもこの本社のご苦労ですし、昭和54年の「適格企業年金」加入とか、昭和56年には「トリーカ創立20周年記念式典」など重要な改革・行事で歴史が築かれて行きます。
このあたりのお話しはまた別に致しましょう。
日の丸印刷ビルでは、その後平成4年に現在の茨木市に引越しするまで17年間本社所在地として活動しました。
勿論、鳥取銀行の見方も、当初の問題企業として管理監督の目を光らせる関係から、銀行支援の結果優良企業に復活したモデル企業のようになり、「自慢の息子」の見方に変化したのではないでしょうか。
ありがたいことですね。
鳥取県でトリーカの名が定着したのもこの期間のお陰です。

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2006. 4. 25 高田

第52話  「苦い思い出!」

「忘れられない苦い思い出を2点」

第50話を越して時代は新しい場面に移って行くのですけれど、その以前にあった忘れられない苦い思い出は、幾つもありますが、知らぬ顔をして通りすぎては申し訳ないでしょう。
本当はありふれた事で大した事件でもないのですが、そんな些細なことも昔話にはあっても良かろうかと、自慢できない事で恥ずかしいのですが、その内の2ツを敢えて書いておこうと思います。

①裁断してないギンガムチェック
時代は定かでないお話です。昭和40年を過ぎた頃だったと思います。
その頃はともかく縫製工場で縫う注文があれば、何でも引き受けていました。
受注したのは良いのですが、縫製する場所が無くて大阪の守口の方にスリップを縫っている工場があり、折に触れ仕事を頼むところですが、そこに無理やり押しこみました。
鳥取の工場が満杯なら大阪でも四国でも何処でも探して走っていた時代です。
中野さんと言う本業は自動車の修理屋さんだと聞いていましたが、自宅の敷地内に小さい工場を建てていました。20台ほどののミシンと簡単な裁断設備を持って主にスリップの縫製をお願いしていました。
そこにギンガムチェックのパジャマを頼んだのです。
他社の、確か大同布帛のスリップ等も競合して縫製している小さな工場で、そこに無理やりはさみこんで入れてもらう訳です。材料を持ちこみ型紙を渡して、縫製の注意点を説明し、サンプル縫製を先行するように頼みます。
最も大切なのは「何時から縫製に入るか」で、それにより納期が守れるかどうかになります。先行サンプルが上がれば後は引き続きあがってくるものです。
その時も本来なら工場に寄り状況を確かめるのですが、忙しくてつい電話連絡のみになっていました。電話しても社長や奥さんが必ず居るとは限りません。
そうこうするうち納期に近づき電話すると、「明日から入ります」言われる。
少し遅れ気味だが何とかなるか ~と一安心してしまいます。
4~5日して確認すると、「まだ上がってない」と言う、「大同布帛のスリップが遅れてる」と言い訳されます。おそらく大同に別口をはさみ込まれてしまったのです。
それぞれのお店が命がけですからね。

ある日ワコールで、いつもの様にのらりくらりの言い訳をしていると、とうとう課長が出てきて、「今から現場に走る」と言われました。
守口はワコールから一時間もあれば着く町です。
今と違って携帯電話も無い。車で走って行って、着いて見て驚いた。
明日は縫いあがると言ってたのに、まして既に納期は過ぎているのに、原反のまま積んである。裁断にも入らず、ミシン場は他社のスリップが流れていて、社長もいない。
自分でもびっくりしたがどうしようもない。
まさにお手上げでしたね。
あの時は逃げられなかった。どうしたか忘れたが、原反を引き上げたかも知れないのですが記憶がありません。
あの工場でその頃何年間もいろいろな製品を縫いましたが、縫えなかったこのギンガムパジャマのことは強く記憶に残っています。ヘンなものですね!。

②PACCOの思いで
PACCOパッコと言うのは、ワコールの紳士ものの新しいブランドでした。
今ならウイングなどでBROSブロスとか、ブローニィーとか言われている男性用の下着があると思いますが、それのはしりみたいなものでしょう。
昭和40年代の終わりころだったと思います紳士のカジュアル製品でジャケットやパンツもあり、そのシリーズの中の下着製品を受けたのです。
恐らくワコールとしても紳士ものははじめての本格的試みだったと思います。
ウレタン糸が少し挿入されたニット生地を使い、身体にフィットする製品をねらっていたと思います。明るいピンクやイエローの縁取りの配色で、それまでグンゼの白からくだ色のメリヤス肌着しかない売り場には目立つものだったでしょう。
ランニングシャツや半袖~後のTシャツ型やブリーフなどの製品でした。
これは北条工場で計画していたのですが、どんな理由だったか記憶に無いのですが、ともかく納期が来ても出来上がりません。
言い訳しながら過ごしていたと思うのですが、ある日とうとう限界が来たらしく、課長に呼ばれました。
「高田君、どないなっとるんや、パッコは普通の製品と違うんやで。見てみい今週の週刊誌に宣伝を載せてるんや、アウター製品は出来とんや、百貨店にどない言い訳するんや!」と言って確かに週刊誌に載っている写真を見せられました。
週刊誌に宣伝を載せるのも珍しかったと思います。
あの時も参りましたねえ。
どの様に言い訳したのか、詫びたのか忘れましたが、叱られた記憶だけ鮮明に残っています。その後どうしたか記憶にありませんが、生地荒れ不良品を私が一時着ていましたからともかく縫製はしたのでしょう。
この時の課長がギンガムの時と同じ堀 重一課長でした。
堀さんと言うのは、西村メリヤス倒産の日に一緒に出張していた人で、鳥取西村が再起した時、最初に東洋紡ソデスのローブの注文を出してくれた恩人です。

ギンガムパジャマと言い、PACCOと言い私の手落ちでワコールさんや堀さんにはずいぶん迷惑をかけたと思います。良くぞ許して戴いて今日まで続いたものです。
40年くらい昔の話ですが、こんな事は忘れませんね。不思議なものです。
ここでは納期遅れのお話2点をしましたが、これ以外に色んな事故や不手際がありました。お詫びばかりですね。
どうぞ皆さんはこんな事の無いようにして下さい、お願いします。

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2006. 4. 26 高田

第53話  「タクト青谷工場事始め」

「タクト青谷工場事始め」



青谷工場は、昭和55年8月「株式会社タクト青谷工場」としてスタートしました。
その年の3月に「株式会社タクト」が発足し、最初の自家工場が青谷工場となったものです。
タクトの会社設立の背景やタクト本社のお話は致しました。
ここに昭和55年6月28日?日本海新聞?の記事があります。
当時のアルバムに貼ってあるコピーですから、少し見にくいかもしれませんが拡大してみて下さい。

鳥取西村メリヤスは昭和36年名和町に設立されましたが、大阪の西村メリヤスが親会社として存在している企業の、「工場進出」でしたね。
当時はこの工場進出が盛んでした。
大阪にある「浅利洋行」と言うハンカチやブラウスのメーカーで、同じ様に鳥取県に進出し、ここの会社の場合は青谷町に来られたのです。
昭和38年頃と思いますからトリーカより少し遅れています。
ほとんど同時期に現在のお隣の「鳥取森田染晒工場」も開設されました。
だいたい繊維関係の工場が着て、少し遅れて弱電工場が進出した時代です。

浅利洋行の工場は、「鳥取浅利」と言う社名で別会社として最盛時は130名位の社員を擁していた様ですが、昭和54年に大阪本社と共に倒産したようです。
現在青谷工場の応接間のテーブルの下に、手作りの将棋板がありますが、そこに「鳥取浅利株式会社」と書いてあります。何もかも移り変わり、浅利の痕跡が残っているのはこの将棋板のみかもしれません。青谷の皆さん大切に残してくださいね。
地方進出で出来た会社は親会社の倒産等があれば単独での存続はほとんどありません。
「親亀こけたら小亀孫亀皆こける」のです。
その意味で、トリーカは珍しい事例であり、その結果今日の我々が生きているわけです。歴史はふしぎですし、私達はまさに「有り難い」ことなのですね。
倒産後、鳥取浅利には60名程度の労働組合員が残り、工場を借用?して組合運営による操業?を続けていました。
この「組合運営による工場操業」と言う事例も珍しい事です。
組合員の皆さんの意識がしっかりし、また受注を含めて商売の継続や、それ等を束ねるリーダーが立派だったと思います。
当時をご存知の社員の方が現在何人残ってお出でか知りませんが、大変なご苦労を経験された事と思います。
この様な苦労を経験した社員の居る工場は、その後の逆境にも強いですね。
その意味でトリーカには厳しい歴史や経験を持つ工場が多いのですが、だんだん記憶が薄れているかも知れません。
どうぞ各工場でも昔のご苦労は語り継ぎ、強い力にして頂きたいと念願します。

鳥取浅利の組合も、トリーカの組合も同じ上部団体である「繊維労連」に属していました。そこからの内々の支援要請や、地元青屋町、鳥取県商工部、鳥取銀行等の要請もあり、トリーカによる社員を含めての工場買収がまとまりました。
新聞記事の通りですね。

以前も書きましたが、ワコールとしては長崎、肥前まで工場展開したので、青谷まで余力がありません。ウイング事業部の仕事を受ける事となり、色々な事情からトリーカでなくて、「タクト青谷工場」として発足する事となりました。
工場買収、全員継続雇用、県や町の支援など、また受け手側の経営環境、計画等、色々な条件や背景を含んで、売買交渉は進められるわけです。
だから、どの工場も発足当初はすべての事項が先輩のトリーカ工場と同様には出来ないし、そんな事は言えません。それぞれ違った事情の中で時間をかけて同体化する事になります。
トリーカと言う会社があるのに、タクトを作り、またその後年・平成10年トリーカとタクトは合併するなど、歴史は様々な要件を消化しながら進化しています。
ワコールとWICの関係もそうゆう事かも知れませんね。
鳥取浅利の社員の方は、その他いろいろご苦労もされています。
労働組合の役員の方以外に、社員株主や役員をされていた方などは、いわゆる株式会社としての法的株主責任やその負担、取締役等の役員は借入金の保証やその負担など、一般社員とは違う立場で責任や結果を負われたものと推察致します。
会社経営が破綻すると言うこと、自分達の乗っていた船が沈むと言うことは、まさに大変なことなのです。そうゆう事にならないよう、自分達の船を沈めない様に頑張りましょう!

青谷工場で当初生産したブラジャーは、ウイングが量販店に出す戦略的特別企画の超低価格品でした。
確か800円程度で小売されるもので、それでも通常通りウイングのラベルを付けるわけで、結構品質・性能は良いものでした。
当時担当されたのが丸尾常務ですが、「TB-50と呼ばれたBRAで50万枚ぐらい売る予定」で始まったと言われています。
実際は10万枚足らずで終了しましたが、加工賃は確か170~180円で、尋常の体制では採算が合うものではありません。
新しい工場のことですから私も担当していましたが、あまりにも安いので交渉決裂になりかけたのですが、ウイングとの長期取組みを考慮し、戦略的に合意したと思います。
今思えば、まさに國際価格や中国価格の先触れだったのでしょう。
現在岩村部長がやっているの中国生産の加工賃はどんなBRAでも約一ドル=100円余りですね。國際価格は現在でも厳しいものです。
でも、この時は「徹底的なコストダウンへの挑戦」をビジネス全体で取組むと言う事で、ウイングも工場も様々な工夫をしたと思います。
ミシンテーブルを短くして、職場移動の距離を詰めたり、動作経済を考え研究したと思います。アタッチメントや自動縫製工程、裁断や検査も工夫したでしょう。
この辺りは現場の皆さんの記憶にあるのではないでしょうか?
厳しい課題は新しい知恵を導き出したかも知れません。

その後タクト青谷はウイング専用工場としてランジェリーやニット製品も手がけました。
工場の増改築を行いタクトブルーの美しい工場で頑張りながら、平成10年にタクトがトリーカと合併し「トリーカ青谷工場」と名前を変え、平成15年には全面的改築で現在のトリーカグリーンの工場になっています。
現在、青谷工場は勿論中国人研修生も元気ですし、恐らく浅利時代を超えて史上最多の社員を擁しているのではないでしょうか?
社員の皆さんや、工場自体が苦しい歴史を経ていますが、「今、健全に生きている」と言うことで、過去のすべてのご苦労が報われていると言えます。
過去は記憶の中に残して、未来の夢を描きつつ、青谷丸を進めてください!!!

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2006. 4. 27 高田

第54話 「それからのトリーカ報告会」

「それからのトリーカ報告会」



少し先行していた原稿書きが、とうとう当日に追い込まれ遅れてしまいました。
何処まで追いつきながら書けるか判りませんが頑張って見ます。
さて、今日のお題目は「それからのトリーカ報告会」です。
実は初めての試みですが、この「トリーカ昔ばなし」にお名前の出てくるような古い時代にお世話になったお方に、おいで戴きその後のトリーカや現在のトリーカの状況を報告しお礼の会をしたい」と考えたのです。
ワコールの方にしろ、トリーカOBの方にしろ、沢山の大切なお方が居られるわけですが、そのすべてをお招きできるものでもありません。
何が基準と言うものでもありませんが、私の独断と偏見になろうともお許しを願い総勢18名の会を試み、案内申し上げました。
なにせご高齢の方もあり、また当日風気味の体調の関係もあり、結局上の記念写真のメンバーが集いました。

当日4月27日、8名はゴルフをして後に会場へ、残り8名は夕方会場へ集合しました。
大阪本社の近くにある「高槻の攝津峡温泉かじか莊」を会場として、懇親会かOB会のような、懐かしいメンバーの気楽な集りとなりました。
「久々に息子の家を訪れるお積りで、気楽にお出で下さい」とご案内していました。
実際私がまだ20歳代の頃の方やその頃以来、色々お世話になったお方ばかりです。
まあ、私にとっても「トリーカの後見人会」と言うか「高田の父兄会」のような暖かい感じの、嬉しい会になりました。
事前に「トリーカ概略年表」をお送りしていたのと、折に触れトリーカのことは気にして戴いている方達ばかりですから、それからの事も良くご存知でした。
それからの歴史を簡単に私が説明し、後を継いでいる現在の経営TOP陣として竹中社長、桑本専務、丸尾常務を紹介しました。経営陣がしっかりしているか否かが一番大切ですからね。そして現在のトリーカについては竹中社長が話しました。
皆さんはトリーカが45年間生き抜き、現在は中国人の研修生が300人近く在籍し、また中国生産も手がけ、しっかりした後継体制のもと、トリーカが元気に活動している事を、我が事のように喜んで戴いたと感じました。
40年前にはトリーカの競合工場も沢山あったのですが、今はほとんどの他社工場は無くなりました。その様な時代経過の中でトリーカがこうして元気な報告会が出来る事はとてもすばらしい事です。
社員の皆さんも共に喜んでください。
様々の山を超えてきた事が、現在のトリーカを作っているのです。
トリーカ社員全員の成果を発表できるなんて、うれしい事ですね。
これが、工場の閉鎖や会社の倒産を説明する会だったら、さぞつらい事ですからね。
トリーカのはじめを知っていて、応援してくださったワコールの方々、共に働いたトリーカOBの先輩達、皆さんと共に私は本当に嬉しい記念すべき一日でした。

記念写真の方々を簡単に紹介しましょう。
敢えてフルネームは書きません。
①前列向かって左から、小嶋英司さんです。
この方は、東西メリヤスの時代からお世話になり、あのフラワースリップからのお付き合いです。その後ブラジャー、シェイプパンツ、タクト関係など経て最後は、現在の中国生産の足掛り「422」を始めたのもこの方の呼掛けから始りました。
たまたま私と同じ年齢で、トリーカ人生の間ずーっと続いた生涯の恩人ですね。
②次は福永兵一郎さんです。この方はご存知の皆さんも多いでしょ う。私の前のトリーカ社長です。本来ワコールでは創業期から販売関係を担当され、生産製造は始めてトリーカで経験されました。とても明るく元気な方で、販 売前線から見た話しをしながらトリーカを引っ張って行かれた方です。
経営面にワコールからの人的派遣を最後に打ち止めとしてくれた方ですね。
③3人目は中野 広さんです。写真では靴下を履いている人です。
ワコールの技術部門を構築された方で、トリーカはワコール製品の最初の時から指導を受けました。「オーバーロックは6mmの縫代、その内3mmはカット代、下生地はずらして見える様に、ミシンは止めずに縫いなさい」と一から教わったものです。
ZD運動とか、標準工数による生産管理などこの方が作られ、指導も受けました。
工数、賃率、生産性、作業能率、こんな言葉を一から習ったものです。
トリーカの技術面の恩人ですね。
④4人目の頭の丸い方が堀 重一さんです。
西村メリヤスが倒産した日に、私と一緒に北条工場に出張していて、引揚げ作戦を夜中じゅうやった人です。
鳥取西村メリヤス再起の時には、最初に東洋紡ソデスのローブを発注してくれた人で、ご本人も強い記憶をお持ちでした。
その後PACCOだとかギンガムの記憶がありますが、あまり表面には商売関係はありませんでしたが、大切な時期にとても重要なポイントの方で忘れられません。
いわゆるトリーカとワコールの関係において「井戸を掘ってくれた人」ですね。
⑤次の同じ丸いおつむの方が池野啓爾さんです。
この方もトリーカの歴史の中に度々関与され、その都度担当者のさらに上に居られて、私も継続的にご指導戴きました。九号線改造論から、「トリーカを上場させる会」など
夢を語りながら、会社経営の高い見地からご指導を戴き、本当にそうしたいとも思ったものです。福永さんと共に最高齢の方です。
この写真に写っている方は、みんな現在のトリーカが元気に生きていることを心から喜んで戴ける大恩人の方ばかりですが、その代表者ですね。
ありがたいことです。
⑥次のVマークは藤川敬次さんです、
肥前工場の頃やそれ以前もあり、さらにウイング関係の時代や、鳥取センターなど何回も接点がありました。特に記憶に残っているのは「予算制度」の導入です。
年度の予算的考え方とその書式はこの人の時代に始り徐々に精度を上げていき、今日に至ってます。
年次、月次の予算見込みと実績を対比して、工場別一覧表になったのはここからですね。
⑦前列右から二人目が大橋隆夫さんです。
経理関係の専門家で、その面から監査役もされながら、トリーカの会計制度や労務総務や経営管理の数値チエックをされました。その面から強く指摘も受け、私としては貴重な助言を多く受けました。
「高田さん現象面のみ見たらあかんで、その裏の本質を見抜かなあかんで!」と言われたのは印象に残りました。
現在トリーカが健全な財務状態や労務体制の健全化等この方の厳しく暖かい励ましがあって初めて、私として決断出来たことが今日の健全財務体質を作ったと思います。
あり難い恩人ですね。
⑧前列一番右端が柿本龍雄さんです。
この方は長くトリーカに出向され、地道にトリーカの制度面の改善に努められました。
実地棚卸作業の標準化などご指導戴いて出来あがったのです。
棚卸評価とか、その後廃止しましたが退職年金制度など重要な案件です。
また、社員持ち株制度=トリーカ育友会などもこの方のご指導を受け作られました。
色々な制度化についてその実際化を進めていただき、今日の体制が出来たのです。
お世話になった方ですね。
⑨中段で白髪の方は堤環爾さんです。
トリーカOBの最古先輩です。西村メリヤス化繊課の時代から、鳥取西村メリヤスの創業も担当された本当の生証人です。
タクトの社長を長く努められたと同時に、私達と西村社長・宗安社長の世代との中間世代の功労者ですね。
現在のトリーカの繁栄を心から喜んでくださっているトリーカ側大先輩大恩人です。
⑩最後列右端は大島基三さんです。
本当はもっと背が高いのですが中腰に屈んでます。
昔話を思うとき良く出る方で、トリーカやタクトのほとんどの工場の最初立ち上げに関与された苦労人です。私が営業面の表側を担当したとすれば、大島さんは工場担当で実際の工場業務を着々と積上げられた内側の功労者です。
沢山のご苦労を願った大恩人ですね。本当のトリーカ昔話は大島さんがしてくれるでしょう。
大島さん大変ご苦労様でした。沢山お世話にもなったし、ありがとうございます。
⑪次は瀧田孝友さんですね。
勿論みなさん良くご存知の方です。鳥取の本社時代から大阪本社 に移り、総務労務経理と鳥取銀行や労働組合、鳥取地元関係など多方面に渡り動き、トリーカを仕上げて行かれました。特に私が社長時代以降竹中社長時代にわ たり、人事労務制度の変革・大改革と実際に推進された方です。
社員の皆さんとも労組関係を通じ長い時代のお付き合いを願いましたね。
瀧田さん大変ご苦労様でした。沢山お世話にもなったし、ありがとうございました。
⑫3人目は私、高田辰義ですね。どうぞよろしくお願い申します。
⑬後列の真中は窪田忠雄さんです。
東西メリヤスから兵庫西村メリヤス、鳥取西村メリヤス、トリーカと、編み立て部門から縫製部門へ大きく変転しながらやってこられました。
鳥取の各工場から九州へ、とうとう九州人になってしまいましたね。
東西メリヤスでは私も同じ寮生として遊び学びながらトリーカと共に人生を歩みました。
窪田さんご苦労様でした。沢山お世話にもなったし、ありがとうございました。
皆さんも良くご存知の先輩ですね。
⑭その右側からはご存知の方ですね。
竹中顕二社長、丸尾洋一常務、桑本茂樹専務の三人さんです。
長いトリーカの歴史を受継ぎ、まさに現在のトリーカを背負うTOP-3ですね。
「それからのトリーカ」を受け、「未来のトリーカ」に繋いでくださる三人さんです。
竹中社長、丸尾常務、桑本専務の三人さん、「これからのトリーカ」をどうぞよろしくお願いします。
⑮ここには写っていませんが当日「宗安正政さんの写真」を置いていました。
昔話に何回も出ましたね。
昭和40年鳥取西村メリヤスが再出発して以来、創業の人としてトリーカを築いてこられた偉大なお方ですね。
「鳥取県民謡貝殻節」が大好きでお酒の席では必ずご自分も歌い、我々にも歌わせました。
27日の「それからのトリーカ報告会」でも、トリーカメンバー一同が舞台に上がり、この貝殻節を三番までフルコーラスを熱唱しました。
スーパー大恩人~宗安さん万歳ですね。
当日の写真を届け霊前に供えましたが、奥さんにとても感激して喜んでいただきました。

⑯上記以外に、当日ご案内を致しましたが体調などの関係でお二人が欠席されました。

その一人がワコールのOB「池澤喜和」さんです。
東西メリヤス時代、最初の発注書をきってくださった方です。
この人の発注書から、トリーカとワコールの取引きが始り、現在に続いているのです。
この方も井戸を掘って頂いた大恩人ですね。
5月1日竹中社長と私がご自宅を訪問し、報告と写真をお届けしました。
喜んでいただきましたよ。

もう一人がトリーカの大先輩「仙波清重」さんです。
皆さんご存知ですね。東西メリヤスからトリコット工場、裁断センターや長い間の労働組合対応、そしてタクト社長時代にトリーカとの合併まで推進し、トリーカ副社長として大山工場建設まで見届けてもらいました。
仙波さん本当にご苦労様でした。長い間お世話にもなり、甘えてしまいました。
ありがとうございました。
でも仙波さんは前日風邪気味となり大事をとって大阪まで出て来れませんでした。
残念でしたが仙波さんには電話で報告しました。叉次の機会が待たれますね。

多く語りましたが、この人達に付いては語り尽くせません。
本日はここまでです、ありがとうございました!

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2006. 4. 28 高田

第55話 「シェイプパンツの衝撃」

「シェイプパンツの衝撃」



上のポスターがシェイプパンツです。
昭和56年1981年のテレビCMで、勿論動画です。
お尻をこちらに向けてJパンをグイっと下げるのですから驚きますね。
そこに出てくるのが「シェイプパンツ」です。
それまでのワコールでは考えられない、常識をを超えた、不道徳的?、派手さをもったコマーシャルで衝撃的CMでした。
ワコールの商品史の文章を下に引用して見ましょう。

シェイプパンツのTVコマーシャルは衝撃的だった。1981年昭和56年には一気に
脱いだパンツから飛び出したインパクトの強いカラーのシェイプパンツが、
さらに 82年には16分割された画面のカラフルなヒップが話題をさらった。
シェイプパンツはCMのインパクトもさる事ながら、商品そのものが話題をさらっ
た。このころアウター市場に比べF・Lの市場はファッション性で大きく遅れをと
っておりワコールが危機感を抱いていた時期でもあった。
「ショーツとガードルのクロスオーバー商品」と言うコンセプトは、
その危機感に 端を発しているのである。
「ショーツでもないガードルでもない」その中間を求めて開発された。
ねらいは当り、かろやかでスポーティな下着は一年余りで売上が300万枚を突破す
ると言う予測を大きく超えた爆発的ヒットを記録した。
シェイプパンツの誕生は、感性による下着ファッシヨン化時代の始りを
高らかに告げるものとなったのである。

TVコマーシャルは当時としてはずいぶん飛びぬけたもので、いわゆる「度肝を抜いた」ものでした。
そしてこれの縫製は突然の「命令?」だったといえますね。
記憶では小嶋さんがガードルかブラの課長だったと思うのですが、「ともかく縫わねばならん。やってくれ」とかで、当時は兵庫でガードルを縫っていたのだろうがその全面転換とか、ツインジェリーの班をつぶしてもやれ!とすごい勢いだったと記憶しています。
「塚本社長の命令で100万枚売らなあかんのや」と必死でした。
その後引き続き確か酒田清光部長からも「ともかく急いで立ち上げろ」と異例の電話があった記憶があります。
確か伯太とかそれまでガードルなどに経験のない工場も無理やり転換したものです。
ミシンの購入もしたはずですが、各工場に1個班なら何とか転換しやすいとかでやったように思います。
生地はツーウエイのトリコットと、綿トリコットを裏に使い柔らかく良い感じでしたね。
レースなど使わないから材料セットもやり易く多工場展開がやりやすかったわけです。
何枚縫っていつまでやったか思い出せませんが、あの時はみんな燃えたのでしょう。
頑張りましたね。売れ行きも歴史的なものらしく、300万枚と言うのは覚えています。
最初「100万枚やれ」の号令は塚本社長の鶴の一声らしく、担当者は通常の新製品程度の思いでもっと少ない数を予定していたのでしょう。
それをこれは売れる!と見こんで100万売れと目標設定したのは塚本社長だったのです。
恐らく社長が具体的な品番に指示をする事は珍しく、全員が奮い立ったのです。
その結果次の年も含め300万枚が売れたわけです。
工場には感謝状かそんな記念の盾かなにか貰ったようにも思いますがどうですかね?
シェイプパンツについては工場の方は記憶があると思います。

最近はこの様に「台風のような取組み」がなくなって無茶もしませんね。
余り無茶な計画や、社長命令などと大げさではありますが、ものづくりから販売前線まで一気通貫のイベント的盛り上がりがないように思いますがどうでしょう。
いや、私が知らないだけの事かもしれません。
無難な計画を立てて達成率をあげるのも大切ですが、時には途方もない、不可能に挑戦するような「事件」も懐かしいですね。
こんな時損得抜きに緊急対応するには、当然宗安社長の了解を取るのですが、
「全面協力せよ!」と言う姿勢でした。
営業担当としては動きやすかったですね。こんな時は当然の要にミシン購入の要請が工場から出るのですが、かなり認可されたと思います。
「臨機応変」の素早い対応はトリーカの強みですね。
まして各工場に分散して、結果的に多数の班を転換できるのは、売り方から見れば
便利な生産力です。
この頃から「困った時のトリーカ頼み」は生まれてきていたのかも知れません。
工場現場は大変な作業でしょうが、他社の真似が出来ない対応力と言う体制は
大切にしたいものです。
あれやこれや、シェイプパンツは懐かしい衝撃の大騒動でしたね。

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2006. 5. 1 高田

第56話  「タクト野田事始め」

「タクト野田さんとの当初のお話をほんの少しだけ!」 

「株式会社タクト野田」さんのことを、トリーカ昔話に書くのは少々変ですね。
なにせトリーカではなくて野田 實社長の会社のことです。
別に野田さんにお断りしているわけでもありませんが、タクト野田の話をトリーカの昔話に加える事は許していただけると思いますし、逆に入れてなかったらお叱りを受けると思います。
それぐらい野田さんとトリーカは、一心同体的に長い歴史を共に歩んできました。
少なくとも私はその様に思っていますし、野田さんもその様に認識しておられるのではないでしょうか。

野田さんに最初にお会いしたのは昭和50年頃だと思います。もう4~5年早いかな?
その頃ワコールから生産依頼があると、ともかく受ける積りで縫製工場を何処かに求めたものです。
勿論北条や名和など自工場が望ましいのですが、完全に能力をオーバーしていました。ミシン屋さんや縫糸屋さんの紹介を貰って、現地の工場に走るのです。
あの頃は大島基三さんとしばしば走っていたのではないでしょうか。
松山に「戸井田縫製」と言う工場があり、スリップやウィンタム等をお願いしていたと思います。
その頃も各地に家内工業的に沢山の縫製工場があり、愛媛県だけでも数社は私達と仕事の関係がありました。
私は工場の管理体制を計るのに、そこの経営者である社長とかその奥さんがどう言う人か、奥さんも工場に入っているか等を重要ポイントと考えて判定していました。
20名ほどの家内工場で社長以外に信用できるのは奥さんだけです。
奥さんが一緒にミシンを踏み、電話も受け、お金も管理しているような工場は、仕事も上手く行きます。
戸井田縫製は奥さんの印象より、そこに居た若い男性がしっかりしていました。
社長の甥とかで裁断からミシン修理まで何でもやっていた頼りになる男性が居て、それが野田さんだったのです。
何処の工場でも「ワコール製品」と言うのは加工賃も良くてやりたいが難しいので失敗します。
縫製規格とか品質基準が高く、検査でダメになる事が多々あったのですね。
サンプルを見せ、規格基準を説明し、注意点を話し、その後に納期や加工賃の話になります。
これらの事を野田さんを中心に説明していたのです。
戸井田縫製はスリップやウインタム、ランジュなど何年間かやって戴きました。
実際の縫製場の運営は社長さんより野田さんが把握していた様に思います。

そうこうして昭和54年1月から、野田さんが独立して自分で工場を始めたのです。
行って見ると運送屋さんの車庫の二階を借りて5~6名だったと思いますが、そこが野田さんの「野田縫製」工場でした。
野田さん自立の始めの初めですね。
勿論工場は建物で評価するものではありません。
すべては経営者です。
まして小さい工場は経営者個人が信用できる人なら、それが即工場の力であり信用です。
奥さんも一生懸命縫っていました。
野田さんを知っているトリーカの誰もが仕事を出す事に異論はありませんでした。
当初はデザインショーツの縫製を出したように思います。
狭く短い延反台で工夫して裁断してくれました。
有り合わせの古いミシンで調整に苦労されたと思います。
トリーカの廃棄ミシンを買って帰り、2~3台をばらして一台を組み立てるのです。夜はほとんど眠る間が無いとか言っていました。
家に帰るのは時間がもったいないから、原反の間に寝ます~とか言ってましたが本当だと思います。
夜中遅くでも早朝でも電話すれば出てきましたからね。

2~3年して「土地を買って工場を建てたい」「個人会社から法人化したい」「出資とお金を貸して欲しい」等要請がありました。
最初はびっくりしたのですが、熱心なのでだんだん引き込まれ、宗安社長の決断を得てOKを出しました。
確か50%の出資と、数千万円の融資です。
お金はワコールの協力を願いました。
お金の動きはワコール~トリーカ~野田とわたったのですね。
これこそ関係者全員参加、参加者共同責任を感じるのような宗安戦略です。
その頃仕事はウイング~タクト~野田とショーツの流れが出来ていたので、ワコールの材料出荷伝票は「タクト野田」となっていました。
「タクト青谷」と同じ意味ですね。
この名前が日常の呼び名として定着していたので法人化された社名は「株式会社タクト野田」と自動的に決まってしまった様です。
銀行の信用もこの方が得やすかったのかも知れません。
いや、野田社長さんの気遣いだったのかもしれません。
ともかく野田社長は「仕事が最優先の人」でしたから、それを考えられたのでしょう。仕事の進めやすい社名にされたのだと思います。
野田社長は今治や松山に友人も多く、その人たちの献身的友情のなかで、賢い土地の買い方、賢い工場の建物づくりなど進められました。
出来あがったのが現在の松山本社の土地や建物です。
昭和56年の6月でしたか開所式があり、ウイングからも当時専務さんだったと思いますが松浦謹一郎さんが出席してくださったと思います。
野田さんは立派でしたよ、恐らく自己資金のほとんどないままに若くして将来を読み大きな投資をされたのです。
誰も出来ないようなことに挑戦されたすばらしいことですね。
そのうえ日頃は仕事着で埃まみれのことが多い野田さんしか見ていなかったのですが、開所式では淀みなく見事に挨拶されたのが驚きで、あらためて
野田社長さんを見直したものです。

その後長い時間が過ぎますが、タクトはトリーカと合併して閉鎖しましたので、タクトの文字が残るのは「タクト野田」さんのみになってしまいました。
厳しい経営環境だったと思いますが、野田さんは一回の遅れも無くお金は確実に返済されました。大変だったと思います。毎年決算書は小さな赤字や黒字で出来ていました。
少しは決算調整されたかも知れませんが、現実に黒字路線でないと何年も黒字決算が続くものではありません。
それに加えて私も仕事や仕事以外にも色々な無理をお願いしました。
野田さんはすべて受けてくれるのです。
今までお願いして断られた記憶はありません。
こちらの要望を受けて、それを前提に対応策を考えられます。
極端にはショーツの班にブラを入れて欲しいと頼むようなこともあったのです。
倒産した工場の残務整理をお願いしたり、突然仕事がなくなったり色々無理無茶を願いました。
そんなトリーカやタクトに対し「どんな事態にも対応する」と、勿論大変な努力や無理をして対応されるのですが、この点が野田さんの一番強いところだと思います。ありがたいことですね。
それやこれや、こちらの我ままでずいぶんご苦労をおかけしました。
当初は工場のミシンの間を小さい子供さんが遊んでいましたが、その子供が今は立派に成人されている野田課長さんや新宮におられる弟さんですね。

その後も一貫してトリーカとの共同歩調のもとタクト野田を経営されました。
野田さんの更に外注工場を広げたり、アシックスをお願いしたり、更に平成13年にはブリードに移行していた新宮工場を引きうけて戴いたり、ずいぶん無理をお願いしました。
野田社長の長期的経営戦略のなかで新宮工場は発足したと思います。
トリーカと前後して中国人研修生の受入れもされ今や140~50名とか聞きます。
これもすごい事ですね。
また、中国瀋陽における工場進出を早々と実行され、今はトリーカがおぶさって利用させて戴いているいる形ですね。
まだまだトリーカは野田さんとの仕事関係、信頼関係のもとにご協力を願わねばなりません。
こう言う関係は一朝一夕に出来るものではなく長い歴史の中で、結果的に築き上げるものなのでしょう。
野田さんこれからもお互いの発展の為に仲良く、よろしくお願い申し上げます。
ところで、野田さん煙草は止めましょう。頑張って下さい!
~(野田さんの名誉のため申しますが、現在は完全に煙草は止められました)

追記:この物語は「昔ものがたり」ですから、最近のお話しは申しませんが、野田社長さんは以前から検討されていた「新工場建設」に着手され、松山市内に新たな土地を手当し、分散工場の集約、研修生宿舎も含めた「新社屋」が平成19年1月に新設され発足しています。
丁度会社創立25周年にもあたる時で、大躍進です。
恐らく近年日本国内で縫製工場の新設は非常に珍しいことでしょう。
「株式会社タクト野田」様の益々のご発展をお祈り申し上げます。

野田さんおめでとうございます。本当に嬉しい出来事ですね!

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2006. 5. 2 高田

第57話  「トリーカパソコン1号機」

「トリーカパソコン1号機」



現在パソコンは公私とも私達の生活に入りこんでしまいましたね。
トリーカでは大小様々な機械が動いているのでしょうが、200台を超えているのではないでしょうか。
縫製工場ですからミシンは数千台あるようですが、パソコンも結構あるようです。

トリーカのパソコン第1号機は昭和58年12月に設置されています。
当然ながらそれ以前に導入の検討を始めています。
ワコールは昭和53年に大型コンピューター“バロースB-6800”を導入されていますが、実務としては何処まで使いこなされていたのでしょう?。
ワコールの状況も見つめながら検討したと思います。
当時はまだまだコンピューターに対して、理解する事は到底出来ないし、本を読んでもそれはあくまでも理屈上のことで、ともかく雲を掴むようなものでした。

その頃の事務用機器とは、まだ「そろばん」は机にあったし、卓上計算機がある程度だったでしょう。
そろばんと鉛筆の時代ですね。
FAXもまだありません。
でも、電話が自動になり文字を送るのに「テレックス」と言って、カナ文字かアルファベットの文字がカタカタと送られる時代です。
タイプライターのカナ文字が送られる状態ですね。
商社なども全世界へテレックスを送ったわけで、伊藤忠商事がイトチューに社名変更したのもこの、カタカナ時代の名残かも知れません。
「コンピューターはほんまに使えるんかいな?」「買うただけの飾り物やで!」とか言うのがその頃の一般認識でした。
トリーカでも南木さんや安達さんの技術部が中心になって情報を集め検討していました。
私は説明を聞いても、ごもっともな事ばかりで判断できません。
最終的に「個人のお金で買ってでもやるか?」と問いただすと、安達さんが「個人で買ってでもやってみたいです」との返事が返ってきたものです。
「そこまで覚悟があるなら購入稟議を出そう」と決心した経緯を記憶しています。
まだ「パソコン」と言う気軽な呼び方は定着していなくて、パーソナルコンピューターと呼ぶもので、NEC社の「N5200モデル05」と言う機種で、「先進の16ビット」「1Mバイトファイル」等と書いてあります。上のパンフレット参照。
お値段は二百数十万円したと思いますが、現在の10倍くらいですね。
値段もさることながら、使いきるかどうかが心配だったのですが、安達さん達は立派に消化してくれました。
何事によらず最初は見込みなどたちません。
「習うより慣れよ」とか、ともかく色々扱って初めて会得して行くものです。
その間はじっと待たねばなりませんね。
トリーカのパソコンは安達さんの「個人で買っても入れたい」と言う熱意から始って、
ワコールに負けない短期間の修得や、種々の活用ソフトを開発作成したと思います。
確かその一年後くらいから、各工場にも導入されたと記憶しますが、それから後は皆さんの方が詳しくご存知でしょう。

今や情報伝達から計算業務、帳票作成、各種業務の手助けになくてはならない資料作成などに使うものになりましたね。
トリーカの会計経理処理も完璧に電子処理化されています。
これも桑本専務などの若い時代に鳥取本社でコンピュータ処理に転換したからです。
経理事務は絶対に間違いがあってはなりません。
大きな山の一本一本の木を書き込んで行くような地道な作業が行われたと思います。
トリーカは地域的に分散している工場ですが、会計データは瞬時に集計されます。
毎月の月次決算も以前は10日間もそれ以上の時間を必要としていました。だから毎月の工場長会議も20日前後になっていたのです。
20日になって前月の成果を検討しても、すでに今月が終わろうとする頃ですからバカみたいですね。そんな時代がつい先頃まであったのです。
年間の決算も3月末に締めて、4月の5日頃はほぼ確定出来るまでに来ました。
日本には沢山の大企業がありますが、決算処理などトリーカはそのトップグループでしょう。
短時間に確実な数字を作る力は、次の経営判断に活用すると同時に、ワコールの連結決算資料として生きるし、銀行その他外部の人から見られても自慢できる社内管理体制です。会社の信用や信頼性などもこの様な事から判断されます。
工場では月末月初忙しいでしょうが、事前に段取りを整えて素早い報告資料を戴いています。皆さんのご苦労は大切な会社の信用を作り上げているわけですね。

21世紀は情報化の時代と言われています。
トリーカにおける情報化とは何でしょう?。何が出来るのでしょうか?
パソコンの導入に始る情報処理の電子化、高速化等は勿論、テレビ会議も定着しましたね。テレビ会議やテレビ会談はもっと活用してください。
トリーカは国内11箇所に分散していますが私達は一つの会社です。
工場の分権化は進めていますが、一方で協力体制もその分権化の基盤にあります。
時には海外工場も含めて、トリーカグループが「あたかも同じ屋根の下に居る様な」協力体制が持てたらすばらしいと私は思います。
「離れているけど直ぐ近くに居て、知恵の交換が出来る」~その様な体制が出来るとトリーカの強さは何倍にも拡大します。
21世紀トリーカの情報化は色々考えられますが、分散工場のマイナスをプラスに転じるIT機器の活用は、これからも大切な課題かも知れません。
パソコンデータに追いまくられる事のない様に本当の意味で「使いこなす」方策はまだまだありそうです。
商品や人の移動や物流は現実に運ばれないと行けませんが、「情報」は瞬時に共有出来る時代です。
ものづくりの現場を国内に持つトリーカが、販売前線や消費者と情報交換して新しいビジネスを作り上げれば、現在と大きく変化したトリーカが生まれ、国内工場の益々の強さが活きるのではないでしょうか。楽しみですね。
パソコン導入から20年余り経ちましたが、これからの10年20年は企業体質においてもっと大きな変化をトリーカはやり遂げる事でしょう!。
21世紀のトリーカ、トリーカの皆さんがんばれ、頑張れ!

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2006. 5. 8 高田

第58話 「トリーカ創立20周年式典」

「トリーカ創立20周年式典」



 



トリーカ昔話も56話を終えて、ようやくトリーカ創立20年までやって来ました。
今日は創立20周年式典のお話です。

「トリーカ創立二十周年記念感謝のゆうべ」
昭和55年10月25日(土)17時~19時
ホテルニューオータニ鳥取 鳳凰の間
招待者 100名 トリーカ社員 30名

トリーカが鳥取県に進出して20歳の成人式を迎え、大人になるけじめだったのですね。
20周年の計画は前期からあり、予算として2年間にわたり引当て積立していたと思います。
①永年勤続社員表彰230名、更に全社員に記念品を配りお祝いしました。
②また、鳥取県社会福祉基金に1000万円の寄付を行い社会への還元も配慮されました。当時としては結構多額の寄付でしょう。
③現在全事業所に「一針入魂」の額が掲げられていると思います。
これは当時のワコール社長であり、トリーカの会長であった塚本幸一さんの筆によるもので、20周年の記念にお願いしたものです。
意味はまさに文字通り縫製作業の仕事の真髄を表した永遠の言葉ですね。
この20周年を記念して全工場に掲げられ、その後新設した工場にはその都度用意したものです。大切にして下さいね。
④立礼お迎え~トリーカの常務役員以上が燕尾服を着て並びました。
⑤司会はNHKで現在は有名な石澤典夫アナウンサー。新人時代鳥取に居ました。
⑥宗安正政社長の挨拶と基金の贈呈
⑦平林鳥取県知事の祝辞とお礼のご挨拶
⑧塚本幸一社長のお祝い挨拶
⑨鳥取銀行八村信三会長の乾杯
⑩懇談に入り、鳥取若葉会の傘踊り
⑪引き続き京都祇園の一力より舞妓さん数名が来て、会場がどよめきました。 鳥取県に舞子さんが来て踊りを見せてくれるのは、初めてだったでしょう。
⑫最後はルシアン野村直晴社長の三本締めでおひらきになっています。

招待者名簿は上記の通り、まさに錚々たるメンバーですね。
当日宗安社長はホスト役として奥様も共々末席におられ、当時営業担当常務の私が一番のテーブルに座る事となり、最高のお歴々の中でしびれてしまったのを覚えています。
次の日はゴルフ組と観光組があり、ワコール大西専務と一力舞子さん一行は足立美術館へ行かれましたね。
ともかく大変な行事でしたが、これでトリーカも鳥取県の企業として一人前に見られる資格が出来たのではないでしょうか。
その時色々と段取り準備にお骨折り願った方々がたくさん居られるのですが、瀧田さんや柿本さんなど思い出は多い事と思います。
また、招待客の中にもすでに多くの方が鬼籍に入られました。
時代は移り時間と共に人も景色も止まる事はないのですね。

当日の宗安社長と塚本社長の挨拶原稿がありますので転記しておきます。
①代表取締役 宗安正政社長の挨拶概要の自筆原稿より
当社は昭和36年5月、鳥取県西伯郡名和町 名和神社記念館をお借りして創業以来ここに21期を迎えさせて戴きました。
その間全社員一丸となり、ファッシヨン・アパレル業界の旗手たらんとして、西日本各地に工場群を展開して参りました。
ランジェリー、ファンデーション、インナーウエア 等婦人用下着の製造販売一筋に、
そして東洋一の新鋭設備を誇る特殊編み立て生地の生産を以って、業績を拡大して参りました。
こうした当社のすばらしい発展は、日頃ご愛顧下さる皆様方の暖かいご指導ご支援のたまものと心より感謝申し上げる次第でございます。
何よりも企業発展の基本は、
「よいお得意、よい社員、よい仕入先」を
いかに大切に考え、相互信頼の上に立ち、時代に相応しい「愛される商品」づくりに
全社員が“やる気”をもって仕事に当り、それを通して“しあわせ”を追求することに
存続繁栄があると確信し、努力する所存でございます。
どうか一層のお引き立てとご鞭撻を賜ります様心からお願い申し上げます。

②塚本幸一ワコール社長の挨拶自筆原稿より~トリーカ会長の立場で挨拶ですね。
ワコール・グループの有力な一員であるトリーカが創業満20年と言う記念すべき年を迎える事が出来ました。
今日、会社の内容も漸く整い、愈々成人として逞しく 力強い成長を期待し得るまでに成りました事を心より感謝申し上げたいと存じます。
振り返りますこの二十年は種々の難関に遭遇致しましたが、皆々様の心からなるご支援と暖かいご指導により、その都度適切な処理を取り得て之を克服する事が出来ました。
叉内にあっては従業員一同が会社を愛し信じ、一致団結して乗り越して来る事が出来ました事を肝に銘じ、感謝をしている次第でございます。
この成人式を新たな節とし、ワコール精神とも言うべき、労使の相互信頼関係をより確立し、之を基盤として 愛される商品作りに専念すべく決意を新たにしている次第で御座います。
時代は愈々本質を求めると申しますか、非常に厳しい本格時代に入らんとして居ります。
“一針入魂”の精神を堅持して 愛される商品づくりに徹し、今日を御育て戴いた皆様に御報い致したいと存じます。
今後とも尚一層のご指導ご鞭撻を賜ります様お願い申し上げ お礼のご挨拶と致します。

以上の二つのご挨拶は原稿ですから少々本番では変更されているかも知れませんが、話された大要はこの通りでしょう。
こうして見ますと、この20年に至るまでに紆余曲折がありそれを多くの皆さんのご支援で乗り越えた事、宗安社長の仕事を通して社員の幸せを築くお考えなど、よく解りますね。この様な先人のご苦労や思いのなかで、現在のトリーカが出来上がっている事に私達も思いを馳せ、これからを考えたいものです。
どうぞ宗安・塚本様お二人の挨拶を再度読んで戴き、こころ新たにトリーカを大切に育てる決意をして今後を考えて戴きたいとお願い申し上げます。

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2006. 5. 9 高田

第59話  「トリーカ育友会と公開の夢」

「トリーカ育友会と公開の夢」

「株式会社」と言う会社のかたちでは、会社の所有者は「株主」になります。
株主は会社を設立したら、その実際の会社経営を自分で行うか、または経営専門家?の「取締役」に経営を委ねます。
「社長」と言うのはその経営者の代表者です。会社は法律的には実際の人間と同じ様な活動をする為「法人」と呼ばれますが、その法人の代表者として対外的にも取引きの当事者になるのが代表取締役です。
取締役は経営の責任と権限を以って経営にあたり、資本金を活用し工場を建てたり、社員を採用して、営業活動を行い、「利益」を生むと経営成果があった事になるでしょう。
通常経営成果が出れば株主は経営を委ねた目的を達成する事になります。

さて、一般に「会社は誰のもの?」と良く言われます。
トリーカは誰のものだと思いますか?
以前にも書いたかも知れませんが、トリーカも株主が居られますし、取締役も取締役会もあり、日常の経営は社長を中心に行われています。
社員の皆さんは会社に採用になるとき、給与やその他の条件を聞き了解して入社します。
その後の変化は労働組合と言う社員の団体で交渉や了解して、働きます。
だから、建前的にはトリーカは株主のもの(持ち物)と言えますし、社長や取締役は株主から経営を請負い、社長はその中心になってトリーカ経営に頑張っておられます。
つまりトリーカは法律的には何ら矛盾せずにきちんとした体制の株式会社ですね。
でも、この法律的体制を常に意識して毎日働いているわけではありません。
現実的には「トリーカはわたしの会社」であり「私の工場」です。
その様な意識で仕事に取組む様に社長も話されています。
「私達の工場は私達が守る、私達の船を沈めない!」と言う意識でみんな頑張ります。
社員も経営に参画している意識です。
この気持がある限り、工場経営は大丈夫だと感じます。日本人の良い考え方ですね。

日本の多くの会社は、この社員の経営参画意識や「我々の会社意識」を大切にしながら、経営しています。
そこで、社員の立場でありながら、それとは別に「株主の立場にも立って、会社を発展・育成して行こう」と言う考え方が、「社員持ち株制度」です。
株主になるにはかなりの資金を必要とします。社員一人ひとりではなかなか資金の準備も出来ません。だから団体で対応しようと作られたのが「トリーカ育友会」です。
トリーカ育友会と言う名前の株主になるわけですね。
株主になる事は資本を出資することであり、資本金はトリーカの会社そのものを形作る重要な意味合いのお金です。
でも万一会社経営が破綻した時は、そのお金は返ってきません。
その様な危険性もあります。
だから育友会の会員は、トリーカの社員なら誰でも参加出来る事にはされていません。
例えば、管理職以上で育友会の性格を了解した方のみと言う条件になっています。
この条件は、危険性がゼロでない限り、仕方がないですね。

トリーカ社員持ち株会「トリーカ育友会」は昭和59年7月に発足しています。
育友会は当時居られた柿本龍雄常務さんなどの努力で立ちあがりました。
育友会が出来あがると、その後は会員の意思で運営されています。
幸いな事に育友会結成以来、25年を超えますが無事配当金も入って正常な運営がされていると思います。
平素は管理・監督職として工場運営に当り、生産効率を上げるように努力され、それらが全社的年間の成果となり、国家に税金として納めた残りが会社利益となって表れます。
その利益処分の一部が「株主配当金」であり、育友会にも入るわけです。
金額の多少に関わらず、私達の、我々のトリーカの「経営の果実」を得られるのですね。
会社との一体感を感じ、愛社心を高揚し、明日への活力となる事が望ましいサイクルです。

トリーカの株式に関し、少し別のお話を致しましょう。
トリーカの株式を「店頭公開」するとか、「上場」すると言う夢、トリーカロマンがありました。。
当然宗安社長は以前からこの夢はお持ちだったし、私も何とか近づく思案を常に探し求めていました。
半分冗談ですが、「トリーカを上場する会」等とお酒の席で話しが出たときもあります。
この時も半分は本気だったのです。
中小企業投資育成会社にかなり真剣に検討を願ったこともあります。
平成3年と平成9年ごろの話しですね。
この頃上場や公開の基準が緩和された時期です。
投資育成会社は、株式未公開の中小企業の株式を一部持ち、その後に公開や上場させる事により、中小企業の底上げを図り合わせてその公開益を目的とするものです。
診断の結果は、「トリーカとタクトを合わせた企業体として、公開に非常に近い水準にある」と言われたものです。
ビジネスの体制、利益創造力、経営組織、会計管理体制、などほとんど問題のない水準まで出来あがっていると言う評価ではありました。
ワコールの子会社と言うのは本来対象外だが、人事や資金など独自性があり、ワコールがトリーカの株式保有の経過などから投資対象企業と出来るなど説明も受けました。
公開までの具体的な手順、価格、などもあったものですよ。

その会社の上場公開はほとんどの経営者が持つ一つの夢ですね。
私もその頃は社長の任にありましたが、かなり真剣に可能性を推し量ったものです。
思案した問題点は
①トリーカの加工業と言うビジネス形態に、花が見え難い。人気が出ない。
②その時既に宗安さんは亡くなられていた。~宗安さんの夢の実現は手遅れだった。
③以前塚本会長に「高田君公開の目的を良く考えよ」と言われていた。~夢だけではダメと言うこと。
④何と言っても過半数の株式を持つワコールにその気が少しもない。
⑤夢以外に、資金面、人材、仕入販売など上場の必要性、必然性が低い。
などの点から見送らざるを得ませんでした。
今になって思えば、ただ公開したい、あわよくば公開利益を得たいなど幼稚な夢でした。
恐らく公開してもその維持コストや煩雑な作業にメリットを消されているでしょうし、万が一のホリエモン的事件の可能性も心配しなくてはなりません。
トリーカは現在のワコール、鳥銀、トリーカ役員、育友会の限定株主が平和であり、一番望ましい株主体制と言えます。
こんな立派な企業を見知らぬ他人に渡す事はありません。大切にまもりましょう!。
でも、時代が変われば叉チャンスも生まれるかも知れません。
その時は頑張って下さいよ!

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2006. 5. 10 高田

第60話  「タクト概略年表とその後」

「タクト概略年表とその後」



先ず簡単にタクトの年表を見ます

期  年 次      項   目
1期 S55年(1980)  3月 株式会社タクトを茨木市に設立 社長 宗安正政就任
〃     8月 青谷工場開設
2 S56年(1981) 12月 タクト野田設立に伴い出資

4 S58年(1983)  8月 タクト株式すべてがトリーカに移行100%子会社へ

6 S59年(1985)  11月 新宮工場トリーカより移籍
7 S61年(1986)  6月 社長 堤 環爾 就任
〃    7月 新宮工場をブリードへ譲渡

9 S63年(1988) 10月 青谷工場改築
10 H元年(1989)  4月 スタジオぺぺ発足
〃    4月 高尾野工場発足
〃   11月 長島工場発足
11
12
13
14 H4年(1992)  4月 タクト本社を茨木市上泉町9-37へ移転
15 H5年(1993) 1月 長島工場新築
〃    1月  STM幹部教育開始
16 H6年 (1994)  6月 仙波 清重 社長就任
17 H7年(1995) 7月 トリーカタクト合同役員「経営研究会」発足
〃   10月 宗安正政 元社長ご逝去~合同葬儀
18 H8年(1996) 4月 スタジオぺぺトリーカ管轄へ移行
19 H9年 (1997) 4月 決算期4/1~3末に変更
20 H10年1998) 4月 トリーカと合併 タクトは閉鎖



株式会社タクトに付いては、初代の宗安社長に続き、堤社長、仙波社長と居られた訳でトリーカ側から見ていた私が兎角申し上げることはありません。
また、別に機会を見てお話が聞けると良いと思います。
ですからトリーカ関連など表面的なことのみを見ておきたいと思います。

タクト設立時の思いなど以前に書きました。
昭和55年3月に設立しましたが、58年8月に株主はすべてトリーカとなり完全子会社
に変身して、設立当初の思いとは少々かけ離れた事となりました。
昭和59年には新宮工場の設備と社員をタクトに移行し、タクトによる新宮工場経営に転換しています。これはトリーカがルシアンなどワコールのライバル企業との直接取引きを消す目的ですが、資本関係が有る限りこの手だても問題解消にはならなかったようです。
昭和61年にはタクトの社長は宗安社長から、堤 環爾社長に代りました。
トリーカの大株主の色々な意向があり、また宗安社長のトリーカを含めた世代交代のねらいもあったようです。

ルシアンとの取引きに付いては厳しい排除の意向が示されました。
資本の論理やら商法に言う競業忌避の懸念ですね。
トリーカからタクトに移行しただけでは許されず、ついに社外放出の道しかなかったようです。この当りの詳しい背景は私には解りません。
結局永年のお取引を願ったルシアンに事情を話し、完全別会社の設立とそこへのビジネス譲渡の運びとなったものです。
京都の業界ではルシアンとワコールの親密な関係もありましょうし、野村社長と塚本社長は非常に親交も深い様でした。
トリーカの株主総会にお二方が出席された時代もあり、それは和やかにマージャンなど楽しんで居られました。
恐らくワコールの株主対応の課題として我々の計り知れない問題があるのでしょう。
勿論表面的には「競業避止」と言われていたのですが、そうでしょうか?
塚本社長はトリーカがルシアンと取引きする事等全然問題にされるようなお考えはなかったと思います。

新会社はルシアンの意向を尊重し、「株式会社ブリード」が設立されました。
そこにタクトで永年ルシアンを担当した中村英二さんが社長として行かれ、合わせて生産場所であった新宮工場や協力工場も移行する事となりました。
工場の価格査定も結構厳しくチェックされ、何も甘くする必要はありませんが何となくあの時のワコールの考え方はいつもと違っていましたね。
中村英二社長は、東西メリヤスから鳥取西村メリヤス、トリーカ、タクトとまさに歴史を刻んだ人でした。
私も東西メリヤス時代同じ営業係、同じ寮生として暮し、中村さんは空手5段の先生でしたから毎朝手ほどきを受けたものです。
たまさか私がワコールを担当し、中村さんがルシアンを担当したもので、担当が逆でしたらどんな人生になっていたのでしょう?
人生は不思議ですね。

ルシアンを手放したタクトは、ウイングとアシックス及びトリコット工場の編み立て部門を管轄する事となります。
昭和63年には青谷工場を部分改築します。
青谷は地盤の柔らかい土地で、30年近い経過の建物の床はずいぶん傾いていました。
ゴルフボールが止まらずコロコロと壁際まで転びましたからね。
ドアがしまらなくなったり雨が漏ったりかなり痛んでました。
この青谷工場の改修を終え、いよいよ平成の時代に入ります。
この後はまた後日に!。
「スタジオペペ」のお話も叉後日に致します。

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