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トリーカ昔物語

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2006. 5. 11 高田

第61話  「ブリードの思いで」

「ブリードの思いで」



株式会社ブリードとの関連は長く続き、運命は環状の輪になっていました。

トリーカ資本100%となっている子会社のタクトにおいて、ルシアンの商品の製造を行う事は、トリーカの親会社であるワコールの立場では商法の「競合避止」条項に違反するとして、監査役意見が強く出て、そこからとうとうルシアン事業は社外に放出する事になりました。
トリーカの私達としては、納得しにくい事でしたね。
それはさておき、その受け皿として作られたのが「株式会社ブリード」です。
形式的にはトリーカもタクトも関知しない会社なのですが、25年以上の長い年月取引きをしていたお得意先とそれに関わる社員や生産工場、取引き実体そのものを引き渡すのですから無関心なわけには行きません。
ルシアンの意向、宗安タクト社長の意向など受けて水面下で新会社作りは進められました。
そもそもワコールの意向を受けた放出とは言ってもきちんとした体制の受け皿が必要である点は、ワコールでも知らぬ顔は出来なかったと思います。
ワコールは関係ないと言いながら、ルシアンに迷惑のかからない解決処理を願っておられたと思います。
ブリードは、ルシアンからの出資と合わせ宗安氏個人の立場でも出資され、宗安会長のもと中村英二氏を代表取締役として昭和61年3月設立発足しました。
このブリードにトリーカ所有の新宮工場・土地等をタクトから譲渡し、その他ルシアン関係の業務に携わっていた社員の引継ぎなどと共にルシアン関係の取引き実態はすべてタクトからブリードに移管されました。
かくして「競合避止」の問題は合法的に解決されたわけです。
ほとんど時を同じくして昭和61年7月タクトの社長は宗安さんから堤社長に替わり、
昭和63年11月にトリーカは社長が宗安さんから福永兵一郎社長に替わり、宗安会長となります。
つまり宗安さんはトリーカ・タクト両社共に前面からやや引かれ、その余力をブリードに注がれます。

その後平成4年頃、当時トリーカは高田社長、宗安相談役となっていましたが、「中国大連市にトリーカの工場を作ろうと言う案件」が宗安さんから発案されます。
宗安さんとしては過去の戦争経験者としての情念やトリーカの将来構想に基くお考えが強かったと思います。
しかし当時社長経験の浅い私は「今は社内整備の時」と考え宗安さんの提案に乗り関心を示す事が出来ませんでした。30年近く仕えていた私が宗安さんの提案に乗らないなんて初めてで最後の事だったと思います。
その為、大連工場の構想はブリードを経由してルシアンに話され、ブリードとルシアンの出資で「大連ルシアン有限公司」の設立が平成4年9月にされ、宗安さんが董事長となられます。
その後、この工場は日本のブリードの技術移転を受け順調に生産も軌道に乗ります。立派に利益の出る経営をされていたそうです。
宗安さんは「高田君、大連ルシアンは将来トリーカが中国進出の橋頭堡となるよ」と良く話されていたもので、私もその開所式典には出席したり、ご縁の深い工場でした。

しかし、人生は思い通りにはなりません。
宗安さんは平成7年10月永眠されます。
宗安さんのブリード株式はすべて中村社長が引き受けられ、その後もブリード・大連ルシアン共に順調に操業されました。
しかし平成12年秋頃中村社長の健康上の事情から、ブリードの「新宮工場をその発生母体であるトリーカに返還したい」と打診が来る事態となりました。
新宮工場以外に福井県に美浜工場などありましたが、新宮工場以外は社員を含め閉鎖処理の目途は着いているので、新宮工場を引き取ってくれとの事です。
トリーカで発足し、タクト~ブリードと26年間続いている工場です。
トリーカとして何らかの対応をすべき責任を感じました。

丁度その頃トリーカは、ワコールの「422」商品の生産をより低コストで行う為中国生産の必要性から、ブリード経由大連ルシアンにおいてブラジャーの委託生産を開始していました。平成12年8月にその最初の製品が入荷しています。
いよいよトリーカも海外生産に踏みこんだ時期です。
この時以来岩村部長が苦労しながら営業二課として海外生産を継続し各題して今日まで来ていますね。
当時、大連ルシアンの株式の50%は、ブリードが保有していました。
工場の基礎技術はブリードが指導していますが、その前身はタクトでありトリーカです。工場の内容はトリーカ的な思想と体制が導入されています。
そこで、ブリードの国内工場のみならず大連ルシアンの株式も合わせて引き取る案件を逆提案したのです。
上手く行けばまさに宗安さんの描いた中国トリーカの実現だな~と話したものです。
でも、中村社長には異存はなかったのですが、ルシアン本社が承知されませんでした。
逆にルシアンがブリードの株式持分を引取り、結果大連は100%ルシアンの子会社になりました。
蛇足ながら、大連ルシアンに対するトリーカからブラジャーなどの加工委託はその後も継続され、現在も断続的に依頼する大切な関係です。
その意味では「大連工場」は、宗安さんの予言通りトリーカの中国生産進出の橋頭堡の役目を充分に果してくれたと言えますね。

さて、ブリードの新宮工場は訪れて見ると、工場自体は余り変化はありませんが、あの山道や峠を越えて行った昔と大違いで、高速道路が近くを走り、立派なトンネルが付き新宮村にもインターチエンジが出来て、大阪から2時間の距離になっていました。
懐かしい班長さんもまだ健在で益々何とかしなければと考えたものです。
宗安さんが健在ならどんな対応をされるかと、思いを巡らしながら思案しました。
色々思案しましたが、結論はタクト野田さんに引き受けて戴きました。
高くも安くも出来ない価格でしたが、私が仲介するかたちでした。
中村社長も野田社長も条件的にはずいぶん気持良く協力戴き、平成14年5月工場も社員もそのまま移管されました。「タクト野田新宮工場」の発足ですね。
ブリードの会社そのものも、その後ほどなく閉鎖解散されました。
中村社長長い間本当にご苦労様でした。
ブリードと言う会社は、別会社になる運命ではありましたがトリーカと深い絆に結ばれていたのですね。

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2006. 5. 12 高田

第62話  「高尾野、長島健闘中」

「高尾野、長島健闘中」

高尾野工場も長島工場も、残念ながら「事始め」が書けません。
考えてみればその他の工場は、その計画段階から何かと関与してきましたが、この二工場はタクトで堤社長を中心に候補地の選定からされており、会議で報告をされていましたがあまり強くは印象が残っていません。
丁度その頃トリーカの方は宗安社長から福永社長にかわり、私も一年余り鳥取の裁断センターに駐在していたりして、やはり本社意識の薄れていた時期なのでしょう。
ここはやはり当時の直接担当していた丸尾常務や当時をご存知の皆さんにお願いしないと書けませんね。
高尾野が平成元年4月、長島が同年11月の発足となっています。
考えてみればずいぶん最近の事になっているわけで、「昔ばなし」と言えないでしょう。
両工場とも発足がウイングとかアシックスだったと思いますが、いずれにせよコストを意識した工場設営だったと記憶しています。
あの時期に鳥取でもなく佐賀、長崎県でもなく、ご当地に工場建設を決定されたのは、若い社員が採用出来るかとか相場的に労務費の比較的安い地域や行政のサービスなど有利な条件を探して決定したと思います。

新工場はいつも大島さんが当初赴任されましたが、「高尾野」もそうでしたね。
工場長は杉原さんでしたか。
広々した美しい工場でしたが、人員が増え直ぐに増築の必要性が出たと思います。
どの工場もそうですが、最初の創業社員はしっかりしているし長く在社して頑張ります。
高尾野でも創業時のメンバーは班長さんをはじめ優秀なメンバーだったと記憶しています。工場のことを思い、自分を押えて頑張る人が多かったと思います。
高尾野工場が出来た時近所に紡績やら二~三の工場が出来ていましたがこの15年余りで消えて行った工場もあるのではないでしょうか。
NECの工場も近くにあってその影響がどうなるかと心配していましたが、彼等も結構変化や波瀾のある経営で、良い時と悪い時が激しくあるようですね。
その点タクトもトリーカも地道にご当地に根付いていませんか?
やはり社員が働く工場は存続する事が絶対大切な事です。
「自分達の船は自分達で守ろう」と話に行ったことがありますが、創業時からのメンバーを中心によく守っておられます。

でも平成10年4月、慣れ親しんだタクトからトリーカに変わる時は少し心配だったかもしれませんね。
海外生産、國際価格、市場競争など大きな変化の時代に生き残るには「トリーカ丸としての強い船団や仕組み」が必要なのです。その為のトリーカ化だったのです。
自立心と協調心の併用でトリーカは存続しているわけです。
工場も十代二十代とか人生の世代や節目があったりします。
高尾野は今、青春真っ盛りの強い時期に居られる時代でしょう。
頑張って下さいね。

「長島工場」は一番厳しい労務制度の中から立派な工場に成長されました。
トリーカの成果給制度を取り入れた時から、その強さを遺憾なく発揮し制度を上手く活用し、工場経営も社員給与も共に理想的な運営がなされていると思います。
トリーカの経営理念である「会社の繁栄と社員の幸せの追求」を具現化されているすばらしい工場だと思います。
工場分権体制の考え方の中で工場別集団成果給の思想を充分理解し、制度の運用のモデル工場だとも言えますね。
恐らく中村工場長を中心に皆さんの知恵や汗や努力が成果を生んでいるのです。
トリーカの成果給制度は決して給与を押えるものではありません。
その成果を追求する者は成果給も追求出来るのです。青天井です。
どの様にして成果を出すかは、その工場、その職場の事情により様々です。
他の工場が参考になる場合もあれば、独自の方式を考えねばならない場合もありましょう。すべては会社が与えてくれるのではなく、それぞれの工場が当事者意識の元に考えちからを合わせなければ成果は出ないでしょう。
長島工場は決して楽な条件ではないと思いますが、全員の意識も努力も協力もされていると拝察致します。

工場が島にあっても山の中にあってもそれを運用するのは社員です。
楽しくやりがいのある。みんなが張り切って働ける職場を作るのは、社員の皆さん自身ですね。私達は人生の貴重な時間をトリーカの職場で過ごすのです。
トリーカの縫製工場は女性の職場として、どんな実験や挑戦も出来る場所だと思います。
高尾野も長島も今一番元気な時代です。
工場として老年になることもあります。
でも少年から成年へ、老年にならず短期還暦で叉若返る事も可能です。
私は鳥取地区の工場は還暦を過ぎ、一回りして新しい歴史の幕開けを迎えているようにも思います。
高尾野も長島も一番若い工場と思っていたら、いつのまにか大山や米子が変身して後ろから追い上げて来た等のことがあるやも知れませんよ。
どの工場も常に脱皮しながら成長すると楽しい工場になります。
高尾野も長島もはじめ物語は書けませんでしたが皆さんのご活躍をこころからお祈りしてます。

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2006. 5. 15 高田

第63話  「ワコール資本と塚本幸一社長の思い出」

「ワコールの資本参加と塚本幸一社長の思い出」

トリーカ株式におけるワコールの持ち株は昭和48年から始っています。
昭和47年に鳥取・兵庫・岡山西村メリヤスの3社を合併し、「トリーカ」と新社名になり、資本金も4500万円となりました。
この時蝶理の持ち株比率は64,8%でした。
つまりトリーカのすべては蝶理の意向で決まったと言える時期でしょう。蝶理から非常勤でしたが岩本 馨さんが取締役でその後ずーっと在籍されるし、監査役も蝶理と鳥取銀行でした。
工場は名和、トリコット、西伯、北条、兵庫、美作、若狭、そして淀江、伯太、まで開設し大阪営業所は本町にあった頃だと思います。
蝶理から常勤お目付けは来ないけど、トリーカが蝶理の近所に住まわされて常に報告の義務があったのでしょう。そんな関係です。
昭和48年になると、総社工場が出来、大阪営業所は現在の茨木市に移転しています。
裁断センターを9月に開設し、押せ押せムードの頃ですね。
実際の受注先はワコールの比率が増え、恐らく70%ぐらいになっていたでしょう。
加工事業で受注先の意向と言うのは非常に重要なことで、事実上の経営支配とも言えると思います。さらに大株主の蝶理にとってワコールは生地を買ってくれる大きな得意先でこれも営業上重要なことです。
会社経営は事業自体の取組みと共に、企業同士は有形無形の「信頼感」による結束はとても重要な経営課題です。
昔なら婚姻関係を結ぶとか、人質を交換するとかして信頼感を強化し、保証していたのでしょう。
ビジネスの世界では資本参加、出資、株式の相互持合や人的派遣等がその、信頼の証しであり、覚悟の表明です。
ワコールの取引き比率が増え、トリーカとしては新しい工場建設や新規投資もやっていきます。当然将来にわたる受注の保証が欲しいところです。
でも通常縫製業界でその様な長期保証契約はあまり聞きません。
やはり工場は受身で弱い立場ですね。
結婚しているのと同様に身も心も捧げていますが、入籍はしないままの恋愛関係みたいなもので、お互いに魅力的でないと別れ話がでて離れていきます。
営業努力と言う魅力の維持が必要です。
ワコールによるトリーカ株式の取得は、ワコールから話がでたのか、トリーカがお願いしたのか、蝶理が持ちかけたのか解りませんが、昭和48年9月約400万円、8,9%の初めての資本参加が出来あがります。
恐らく関係三者がそれぞれメリットを感じたのでしょう。
これでトリーカはワコールとの関係において、ただたんに取引関係がかなり大量だと言うのみ出なく、株式も持ってもらっている関係になります。
やはりトリーカの対外的信用度は上がった事でしょう。
その後ビジネスは順調に展開し、長崎、新宮、肥前と拡大します。
大変な生産能力と言えましょう。
昭和52年3月には資本金を5150万円に増資してワコール比率は29,9%に拡大します。益々本格的で強固な結びつきですね。
取締役にワコールから塚本幸一社長と大西忠一専務?が入られます。勿論非常勤ですが強固なメンバーですね。
その分蝶理の経営関与が薄れます。
そしてとうとう昭和54年8月蝶理の持ち株はすべてワコールに譲渡されます。

当時蝶理は厳しい経営状態にあり、絶好調のワコールとトリーカを巡ってかなりのやり取り、株式の価格交渉もあって移動したようです。
同時に資本金も8740万円となり、その56,4%をワコールが持つ事となりました。
蝶理の岩本さんが取締役から消え、監査役は既に鳥銀のみでした。
ここで資本関係では蝶理との関係は解消されて完全になくなります。
昭和39年親会社の西村メリヤスが経営破綻しても、鳥取西村メリヤスが立ち直れ存続出来たのは蝶理の後ろ盾があった事は最大の要因です。
蝶理には大事な15年間特別なお世話になったわけです。それを基盤にワコールのビジネスも上手く拡大し、ついにトリーカの後ろ盾はワコールに切り替わるわけですね。
過半数の株式を持たれることは、いよいよワコールの完全子会社になってしまったわけです。そこで常勤の監査役として柿本龍雄さんがトリーカの大阪営業所に常駐されます。
創業以来鳥取本社には鳥銀からお金のお目付け役で平木 敬さんが来られていましたが。大阪営業所には外部の人は来ていませんでした。
柿本さんの駐在は、私達にとって何となくこそばゆいものでしたが、柿本さんの温厚なお人柄や心配りから何のこだわりもなく溶け合っていったと思います。
柿本さんは、それ以後常務取締役も含めつごう8年間トリーカに居られましたが、経理総務労務面など細やかな指導を願ってトリーカの基礎づくりに得る所も多々あったと思います。
ワコールの資本比率が増えた関係で、タクトのあり方、競業避止の件、新宮工場、会計処理基準、などワコールの考え方が強く出て来ました。
仕方のないことですね、トリーカのやっていた事が幼稚と言うか整備されていない水準が多かったと思います。結果的にはその後のトリーカにとって良かった事ばかりです。
棚卸品の評価手法や予算実績対比管理などもこの頃の導入です。
ワコールは米国のADRに上場している関係で、米国方式の決算をされていたのです。
おかげでトリーカの会計処理の基準も米国方式を要求され、それに近づけて行ったのです。小企業としては立派なものなのですよ!。

今でもそうですが、トリーカの株主総会にワコールの塚本幸一社長や鳥銀の八村信三頭取をお迎えする事は、神経のぴりぴりと振るえる事でした。
昭和51年、初めて塚本社長を総会にお迎えしましたが、それはとても名誉な事でもあり、嬉しく叉心配な事でもありました。私は末席に居るから良いのですが宗安社長はものすごく気を遣っておいででした。
この時「剰余金のない決算書に出会ったのは初めてだ」と塚本さんに言われました。私は「失礼な事を言われるな」と少し憤慨と意外性を感じたものです。
つまり、貸借対照表の資本の欄に剰余金、別途積立金がほとんどなかったのですね。
つまり、利益の蓄えが未だ出来ていなかった、トリーカの苦しい時代の決算書だったのです。
塚本さんにすればそれを承知で株式を取得されていたはずですから、何も取りたてて総会の席で言わなくてもよい事で、軽い気持で冗談半分に言われたのでしょうが、失礼な発言であり、恐らく宗安社長は実に無念だったと思います。
塚本さんには「赤字決算の総会には来ないからな」とも言われました。
経営者にとって、決算書は経営の成績表です。
悪い結果は悪いのですが、笑われるのは辛い事です。
この事について後日宗安さんのお気持を聞いた事はありません。
でもそれ程情けない決算書の時代があった事は知っておいてください。
赤字の企業だとか、蓄えのない会社はバカにされるのです。
トリーカはそんな事にならないよう、覚悟しておいてください。

そのあとの取締役会で、宗安さんは代表取締役社長になり、塚本さんは取締役会長になりました。「塚本さんは“非”代表取締役の会長ですな」と言って塚本さんの笑いを誘っていましたが、宗安さんの精一杯の皮肉のお返しだったかも知れません。
静かな戦いを感じていたのは末席にいた私だけだったでしょうか・・・・。

宗安社長、塚本会長の組み合わせで16期から27期まで来ます。
塚本さんはトリーカの総会をとても楽しみにして来ていただきました。
つまり黒字決算が続いたのでしょう。
琵琶湖から小型飛行機で鳥取空港まで自家用飛行機でこられたり、小さな子犬を連れて来たり、サングラスをかけて表れ「総会屋だ」と笑わせたり、色々楽しい思い出が沢山あります。
境港の美保関に寄った時など、美保神社の鳥居の前にある汚いテーブルの傾いたような食堂で昼食を取ったり、途中の小型バスの中でみんなに歌を歌わせたり大変でした。
あれは確か九州でした、テープも無しのアカペラで歌うんです。でも次々に出て結構楽しかった思い出です。
平戸のお城を見学した時など、靴を脱いで棚に置くのですが「高田君塚本さんの靴は君が持っておけ」と宗安さんに言われ「えっ??」と思ったのですが持ってついて行きました。
でも正解ですね。塚本さんの靴を誰かが間違えて履いていったら大変ですからね。
宗安さんはそこまで気遣いされていました。
何て言っても「塚本天皇」ですからね。
総会が終わってゴルフの時など、スタートでティショットしますが3~4球打って良い球が出たら、そこから「さあ行くぞ~」とスタートするのですから天皇でしょう!
大山ゴルフでハーフ39?のスコアが出てとても喜ばれた事もありました。
そうそう総社で総会をした時、京都の舞子さんを何人か連れてこられた事もあります。
勿論総会は関係ないのですが、その後の松茸狩りを楽しみにされたのです。
あの時は松茸山を早くから借りきっていたので、幾らでも採れました。
山ですき焼きをしたのですが松茸が多すぎて肉を見つけるのに苦労しましたよ。
嘘のように思われましょうが本当のことです。
でも、それ以来松茸に遭遇していませんね。あれが最後でした。
その時やや傘は開いていたのですが特大の松茸を、塚本さんは大事に自分で持って京都まで帰られました。新幹線の中も松茸をそのまま見せびらかす様に持ち込むのですから、可愛い人ですね。
奥さんへのお土産だったのでしょうか?どうだったのでしょう。
あの頃は、塚本さんの頃は必ず工場を廻って総会をしていました。その時ミシン場を見てもらいますが実に丹念にご覧になります、ミシン場のミシンの間を丁寧に巡回され他の皆さんが待ちくたびれるのですね、それぐらい熱心に見て頂きました。
日本のブラジャーをゼロから作り出した方ですから見る眼が違いますね。
ものづくりの現場を大切にする、すごい方でした。
塚本社長の思い出は楽しい事ばかりですが、書ききれません。
本来は雲の上の方ですが、私達にも気さくな方でした。

塚本さんはトリーカの節目ふしめに必ず出て頂きました。
宗安さんとは深い部分で結ばれ、本当の「男の信頼」が出来ていたのでしょう。
ビジネスを通して築かれるすばらしい「男の友情」でしょうね。
ワコール資本参加当初の総会、トリーカ20周年感謝のゆうべ、トリーカ30周年記念式典、そして宗安さんが亡くなられて合同葬儀の時など、お忙しいなか繰り合わせて戴き、必ず丁寧な挨拶を頂戴しました。
おかげでその様な会や式典に重みがつき格式が保てます。
ありがたいことです。
この礎がこんにちまで続いているとも言えます。
本当にうれしくてたのしくてありがたい思い出です。

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2006. 5. 16 高田

第64話  「宗安社長の戒め」

「宗安社長の戒め」

計らずもワコールの塚本幸一社長の思い出に昨日はなってしまいました。
こうしてワープロを打っているうちに話が予期せぬ方向に言ってしまうのはおかしな事です。
だから今日は宗安正政社長のことを少し書いておきます。
宗安社長については、この昔物語そのものが「宗安物語」と言って良いほどの事なのですが、私如き者が宗安社長の物語は書けませんのでそんな題目は掲げられません。
でも、トリーカのすべてと言って良いほどの事が宗安社長の時代から始っているのです。
その様なお方の話をすべて語れるものではないので、特に私が戒め的に解釈して聞いたお話しの内ほんの2~3をお話したいと思います。

宗安さんは私にとって天とも神とも言える絶対的な方でした。
大正7年生まれですから、私と22の年齢差がありました。
たまたま、後日知るのですが同じ岡山県津山市出身で高校の大先輩でした。
高校を卒業したその年の暮れ、文具問屋を辞めた私が先生に挨拶に行った時、丁度学校に求人が来ていた東西メリヤスを紹介されました。
それが縁で翌年の正月早々から就職することとなり、そこに宗安工場長が居られたのが始りです。
通常ある学校から採用すると、その学校からの採用が継続されるものですが、その高校からの採用が私ただ一人と言うのはなぜだったのでしょう?
それはともかく、東西メリヤス入社以後、鳥取西村メリヤスからトリーカと長い人生を
宗安さんの大きな翼の下で、雨風に遭う事無く過ごさせていただいたわけです。
昭和34年から亡くなられる平成7年まで36年間のご指導を受け、この世の部は区切りが出来ました。きっとあの世でもお世話になる事でしょう。
ともかく私にとっては終生の師であり、言い尽くせぬ大恩人です。
宗安さんのお話はあらゆる場面で聞きました。
会議や仕事の話を通してばかりでなくお酒の席も、ゴルフの途中も、車を走らせながらや、温泉に浸かりながらとか、いろいろありました。

良く言われたのが「高田君、公私混同はするなよ」と言うことです。
いわゆるオーナー会社で、会社のお金と個人のお金が混同されるのが一番まずい事でしょうが、その事を言われたのかどうか解りませんが、この点宗安さんはずいぶん注意されていました。
宗安社長の経費領収書には、その額の多少にかかわらず、いつ、何を、誰となど克明に但し書きがされていました。例え昼食代でも実に丁寧に書かれていたのを見ています。
非常に身綺麗な生き方をされていました。
偉い人になると、使途不明金的な使い方があるとか聞きますが、仕事に使う内容で書けない事は無いと言う事なのでしょう。
別にお金のことだけでなく人やものに対する考え方等、生活全般がそうでしたし、個人的な場面でもキチンとされていました。
だから、トリーカは公私混同の無い社風が出来あがっていると思います。
あるいは現在の私達の方が緩んでいるかもしれません。心したいものです。

公私混同を諌めると共に「人の上に立ったら、絶対エコヒイキしてはいかん」と言う事です。えこひいきしたらされた人もされない人もみんな困るよ。皆平等に扱え!です。
当然と言えばそうですが、これもなかなか上手く出来ません。
外からみたらエコヒイキに見えるかもしれません。
仲良しとか、気に入った部下とか、何でもOKと言ってくれる人など、エコヒイキになり易い落とし穴は幾らでもあります。
幸いトリーカには派閥やヘンな集団は在りませんが、今後もその様に在りたいものです。
特に人の上に立つ人ほど肝に銘すべき事でしょう。

「迷ったら社員のことを思え!」
このことは以前にも書いたかも知れません。
会社経営で判断に迷う事があれば、社員の仕合せは何処にあるか?右か左か判断してその方向で会社を考えよ~と言うものです。
宗安社長のこの教え・戒めが私は守れたかどうか自分でも悩みます。
自分ではその積りで考えその方向に判断し進めた積りでも、果して社員から見た時どうであったろう? 自分の独り善がりではなかったかと思うこともあります。
宗安さんが亡くなられて、仕事のノートなど私が預かっていますがその中に小さな鉛筆書きのメモがあります。

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いのち とは からだ と こころ

この世に生を受けた人間は 生きて行かねばならぬ
その為に 食べる、その為に 働く
私達は 職場を通じて 人生を育て、仕事に生きがいを持つ
人生でも、企業でも 絶えず“幸せの追求”である。

(宗安会長のノートより)

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どうですか、いいメモでしょう。
平成10年に作った「トリーカ第二次中期経営方針書」のあるページに載せています。
原文は宗安さんのノートのメモです。自分で考えられたのか、何かを見てメモされたのか判りませんが鉛筆の走り書きです。
それを転用して方針書に入れました。
きっと、宗安さんの会社経営の根本思想の一つだと思います。
「迷ったら社員の幸せを考えよ」~と言う思想はここから読み取る事が出来ますね。
私はこのメモに感銘を受け、その様にありたいと願いました。

「生きとし生けるもの」まして人間が生きる限り誰しも願う幸せに向かって、社員の人生も会社の経営も、そのようにあろう! ~そのようにありたい!

どうぞこの話を読んで戴いた社員の皆さん、じっくりメモを味わってください。
繰り返し読んで考えて、味わって戴きたいのです。お願い申します。
トリーカの経営理念・信条はここに源流があったのですよ!。
人間社員そのものを中心においた「人間主体企業」と言う私の考え方もここが源流です。
先輩とはあり難いものですね、わたしたちが受継いで行きましょう。

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2006. 5. 17 高田

第65話  「平成のトリーカ事始め」

「平成のトリーカのはじまり」 


トリーカ昔物語も第65話になります。
ここまでのお付き合いありがとうございます。
さて、トリーカは創立が昭和36年1961年でしたが、平成元年が1989年です。
会社では第30期になりますが満29年になるのでしょう。
だから平成の時代ともなれば、昔話とも言えず、現在とも言えません。
この頃、既にワコールの出資比率は56%を超え、競合避止のルシアンはブリードに譲渡され、会計処理もワコール的にかなり修正変化しました。
新しい現在のトリーカ型に徐々に会社実体が変わって行きます。
人事面でも大きな変化が生まれます。
昭和60年にはワコールより福永兵一郎さんがトリーカ副社長として赴任され、61年にはタクトの社長が宗安さんから堤 環爾社長に変わります。
確か私もこの頃鳥取に一年余り駐在致します。
昭和62年の秋、トリーカ宗安社長は会長に引かれ福永兵一郎社長が誕生します。
合わせて高田専務となって福永社長をお手伝いします。
福永社長は工場経験はほとんど無く、ワコールにおいてはもっぱら販売戦線でその開拓時代を戦われた戦士です。
販売では経験も格別のものをお持ちですが、生産は不慣れでご苦労されたと思います。
でも持ち前の明るいご性格で私達にもずいぶん気軽に接していただき嬉しかった思い出です。
鳥取地区では裁断センターから、「鳥取センター」となって地区全体管理に移行しますが、それも三年余りで方向を変え、各工場の「自己完結型管理」に変え裁断の自工場化も行われます。
大量生産時代から少量短サイクル生産に時代は変わりつつあったのです。
タクトでは堤社長のもと、青谷工場の改装、高尾野工場の建設と発足、さらに長島工場も借家体制ながら発足します。
長島はその後平成5年には現在の自前工場を新築移転します。
トリーカに代りタクトが華々しく拡大発展する時代ですね。

実はこの頃将来構想としてトリーカ株式の店頭公開を検討しています。
その以前から「トリーカを上場させる会」等と、お酒の席では話題になっていたものを、可能性として私がトリーカ内部で大阪投資育成会社などに相談し検討したのです。
親会社の持ち株比率が50%超では条件にあわず、その比率を下げる為ワコールの持ち株の内、500万円分を育友会に移行譲渡されるべく願って動きましたが了承されませんでした。
「育友会が必要とするなら増資すれば良い」と話がすり変わり、結果8740万円の資本金が9240万円に増資され、ワコール比率が53,3%の、現在のかたちになったのです。
株式の公開などと言うものは、オーナーや大株主の意向が最大に必要なのに、公開の道筋を先に付け様などと考えたのが私の若気の間違いでした。
口には出されないけれど、「宗安社長にとっては株式公開は男のロマンや」と私は思っていました。そのロマンの道を見つけたい~と思っていたのです。
更に今思えば、ワコールにとって、或は塚本社長にとって、トリーカの株式公開は必要性が薄かったのですね。
この時点で「トリーカ上場のロマン」は潰えたわけです。
私の一人あがきの一幕で終わりましたが、宗安さんは「やれるものならやって見ろ」のスタンスで見守って居られたように感じます。
でも時間を置いて今思えば、作戦的に反省する思いと共に、この結果で良かったと安堵する思いが半ばしますね。

昭和60年ころ、国会議員の議席の人口割り修正などで地域により増える地区と減る地区があり「○増○減」という言葉が流行りました。
トリーカでは生産性の増強と経費の削減を進める合言葉として、「30/30増減運動」とかを開始したものです。
この頃、労務費の慢性的高騰と生産性の意欲停滞で経営に課題が出つつあったのです。
これらが平成二年頃の「生産性向上運動三ヵ年計画」とかが叫ばれるようになり、さらに「長期的経営思想の構築」とかが必要となってきました。
私と竹中部長?の二人でワコールの皆さんの前で「トリーカ十ヵ年計画」などと称して、「カップ指向」や「トリーカルネサンス・人間主体企業」等と大それた経営思想や試算を演説したのもこの頃です。

それやこれやで品種的にもスリップ・ガードルは減少し、ブラスリップやブラジャーが増加傾向となります。
「ワコールの生産をやる限り、ワコールの本流であるブラジャーを主役に」と考えをまとめ「カップ指向主義」を発表します。
全社意識をカップに収斂し、これが平成5年にはブラスリップも全面終結となり、
「ブラジャーのトリーカ」へ完全転換致します。
良く当時竹中社長と話したものです。
「どうやろ、ガードルがなくなったら兵庫はどないする?」
「呼び掛けのある時に受けましようや」とか、
「あの転換決断は正解でしたで、今回もやりまひょ!ブラに賭けましょうや!!」
振り返ってみればその後の運命を決める日々だったのですね。
工場もご苦労されましたが、営業現場も悩み、迷い、相手があり、思案の日々を通過しつつ交渉していたのです。
平成3年5月(1991年)福永社長から高田辰義社長に替り、宗安会長は相談役に引かれます。
福永さんも非常勤となり、昭和55年から続いたワコール派遣人事は柿本龍雄・山崎 純・福永兵一郎三氏の12年間で終わりとなりました。
新高田体制や更にその後に向け、宗安会長と塚本会長との交渉密約がなされていたのだと私は思っています。

平成の時代とか1990年代と言われながら時代は21世紀に向け動き始めました。
トリーカも宗安さんの絶対体制から、番頭出身の高田社長と替りさて、どうなりますか?
この後は、昔物語と言うより、「皆さんと共に歩んだトリーカ変革回顧録」的なお話にさせて戴きたいと思います。~どうぞよろしく!

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2006. 6. 1 高田

第66話  「トリーカの新しい課題」

「トリーカの新しい課題」

5月後半は出歩く事が多くお休みを戴きました。毎日書くのも結構大変なのです。
さて、この「トリーカ昔物語」も100話程度まで行く事になるのでしょうか?。
思いつくままに書きこんでいてまとまりが無く読みにくいこととお詫び申します。
それにも関わりませず、ここまでお付き合い賜り誠にありがとう御座います。
当初にお断りした通り、私より遅れてトリーカに入社されている社員の皆さんを対象に考えている為、どうしても手前みそ的な文章になったり、偏ってしまってしまい大変恐縮しています。
勝手なお願いながら、あまり硬く考えないで「今は昔の物語」と、気軽にお読み戴きます様にお願い申します。
また、これから後は平成以降、1990年代以降を中心に思い出をたどりながら現在に繋がるお話になると思います。
「トリーカ今昔物語」ですね、行きつ戻りつも致しましょうがよろしくご勘弁下さい。
そんな訳でこれからは皆さんも良くご承知の事柄も増え、「これはおかしいぞ!」とご指摘の点もあろうかと思います。些細な事ならお見逃しあってもかまいませんが、どうぞお気づきの点はお気軽にメールなど戴ければ急ぎ修正いたします。

さて、平成3年(1991)5月、宗安会長が相談役に引かれ、福永社長から高田社長に替わります。
宗安会長は取締役も退任され、形式的には経営の前面から完全に引かれます。
この時、九州で開いた株主総会にはワコールの塚本幸一社長はじめ、中村伊一副社長、松浦謹一郎専務、更に鳥取銀行八村輝夫頭取など懐かしい方々も出席されました。
前回の第65話に総会記念写真がありました。
宗安社長としては、昭和39年(1964)の西村メリヤス事件以来27年間の社長・会長と言う経営トップとしての責任を果されたその時、取り敢えずの区切りをつける挨拶の場と感謝のお気持を伝える総会だったのでしょう。
その席で福永社長から私が社長のバトンを受ける事になります。
発足当初の西村洋二社長は文字通りオーナー社長でしたが、鳥取西村メリヤスの再生復活を請負われた宗安社長も我々の眼から見ると絶対的な存在でした。
年齢的にもそうでしたし、営業面も銀行交渉も、社内統括にしても、人身の掌握、信頼感等々内外経営全てに於いて格段の実力の差をお持ちでした。
だからこそ、銀行からも商社からも得意先からも、労組からも信認を得て経営責任者として会社の全てを背負われていたものです。
宗安社長とはその昔東西メリヤスの時代からご指導を受け、ワコールとの商売においても開発段階から担当し、宗安社長の希いの実現であるワコール・ウイングのビジネスを進めていた私に、次の時代のトリーカを託し易かったものと思います。
「高田君、ゼロから立ち上げたんだから、またゼロに戻っても構わない。思いきりやったらええ!」と言うのが宗安さんから私への言い渡しと言うか励ましの言葉でした。
「わしには息子がいなかったから良かったんや、だからみんなが付いて来て呉れる。息子がいたら難しいものなんや」と話されたこともあります。
経営者としては息子に譲れない無念さがどこかに有ったのかも知れません。
あの宗安さんと言えども思案され迷い苦しまれる事もあったのでしょう。
人間ですから色々な感情があって当たり前ですが、最終結論は潔く立派なものでした。
次の社長を指名する事は、権力があればあるほど難しいことだと思います。
「高田君、迷ったら社員のことを思え」と言うこの言葉は宗安さん自身の思案に迷い、経験をされた時に支えとされた言葉なのではないでしょうか?。
勿論ここに書いていることは私の想像です。私の想定文ですから誤解の有りませんように願います。
しかし、宗安さんはご自身の引退と高田への引継ぎに備えあらゆる環境整備は早くから進めておられました。
ワコールからの派遣人事の排除、タクト・ブリードなどとの線引き、社内合意等、高田内閣に対するさまざまな支援態勢を整備されていました。
更にご自身の身の処し方など出来ない事ですね。ありがたい真に有り難いことでした。

東西メリヤスで宗安さんのもとに入って以来、つまり「宗安学校」で30年余り過ごした私にとって、宗安さんから言われる事は絶対的なものでした。
事の大小に関わらず「万事受けるべし」で、もちろんそれまですべて上手く行った実績の裏付けがありました。
その案件が例え次期社長であっても、宗安さんから「やれと言われるならやってみる」と言う考え方で、主観性が無いとも言える判断だったかも知れません。
しかしそれだけ強く信頼申し上げていたのです。

さて、「カリスマ的指導体制」に対し「集団指導体制」と言う言葉があります。
私は、「自分は宗安さんの真似は出来ないし、してはならない」と考え「番頭集団による経営」をイメージしました。
戦後教育の民主的考えと言う「みんなで渡れば怖くない」だったかも知れません。正直なところは独りでは心細いのでその様に思ったにでしょう。
宗安社長の時代は「宗安社長が考えるトリーカ経営」だったのですが、私が社長になり「みんなが考えるトリーカ経営」に方向転換が必要でした。
いや、強く方向転換をしようとした~と言う方が正しいかも知れません。
ともかく私としては「社内取締役による集団経営」を念頭において、社長就任の時から会長退任までの14年間、常にその考え方を持って役目に携わった積りです。
つまり宗安さんから受継いだトリーカの経営課題は、神様的超人経営体制から「我々の社員役員による経営体制の構築」が先決だと考えた訳です。
本来、経営者思考を持つと言う事は長い年月をかけ培って行くべきものでしょう。
帝王学などと言えば大げさですがそう言う人間養成を必要とするものかも知れません。
その意味で、社員の延長線上に居る人間が経営者思考を持つのは残念ながら浅いものにしかなり様がありません。
番頭社長は幼稚なレベルからのスタートで、宗安さんとしてはさぞ心配な事だったと思いますが、相談役として宗安さんは毎日出社されるのですから、私としては心強いものでした。

平成5年1月からSTM社(経営コンサルタント)による「幹部社員教育」をトリーカ・タクト合同で始めます。
会社とは、経営とは、取締役とは、等 初歩からの勉強会を外部機関に依頼したのです。
時には課長も含めた会となる一年間のスケジュールの勉強会です が、一千万円を超える費用もかかり、受けるかどうかの決断も悩みました。従来それ程の規模の研修会は前例がありません。宗安さんやワコールにも説明しまし たが、「まあやってみなはれ」的な励ましとも言えない曖昧な返答をもらいながら進めたものです。
STM社による研修会は開始から一年後の平成6年1月「第一次中期経営方針書」発表に至ります。それからの5ヵ年間の経営をを見通すもので、経営方針が文書にまとまったのは初めてでした。

さらにその後は、「人事制度の検討」に入り、平成6年7月には「トリーカ人事理念」がまとまります。現在どこの工場にも掲げられているものですね。
あわせて「人事制度全般の見直しプロジェクト」も発足し、旧来依然とした労務制度の改正が計られ、平成9年4月より「新人事制度の運用開始」となります。
しかし世の中はもっと早い経営体質の変革を要求し、ワコールからは國際価格、世界標準などの名のもとに、厳しく更なる加工賃価格低減を迫られます。
もちろんワコールとしては国内工場であるトリーカには、それなりの配慮はして戴いていたのですが、従来価格と比べ簡単に対応出来るベースではありませんでした。
労働分配率が異常に高い体質において加工コストの低減は、労務条件や労務制度の根本的な修正に切りこまないと解決できない課題でした。
固定給制度の中で高い安い等と交渉する段階を超え、抜本的な制度改革による対応を必要とします。
「労務費が高いか安いかはその働き具合(成果)との比較」で考えねばなりません。
業績連動型賞与制度の導入や、関連して退職金制度の廃止など、更に固定給から工場別成果連動型給与へなど、その他関連規則の修正をせざるを得ないビジネス環境を迎える事となりました。
労務制度全般を大きく変える「トリーカ変革21」を平成10年の秋提案します。
まさに「21世紀に生き残る為に越さねばならない大変革」でした。
その間に阪神・淡路大震災、宗安さんのご逝去、研修生受入れ事業開始、トリコット工場を中国旭化成に譲渡、トリーカ・タクト合併、その他沢山の経営課題が発生します。

集団経営体制は否応なく、役員や幹部社員をその渦の中に取り込んでしまいます。
「我々で考えるトリーカ経営」は「全役員が考えざるを得ぬ経営」に直面し、結果的に「集団経営体制」は構築されて行ったのかも知れません。
大きく見ればベルリンの壁が崩され、共産社会が市場経済に変化し、新たな消費市場の誕生と共に、「縫製業・縫製工場それ自体の市場」も一挙に国際化し、他業種に先駆けものづくりが國際化してしまったのです。
ここにあってトリーカはまさに時代の変化、「適者存続の法則」に曝されるのです。大きな曲がり角でした。
21世紀に向けトリーカは新しいあり方を模索しながら走り出します。

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2006. 6. 2 高田

第67話  「トリーカ創立30周年記念感謝の夕べ」

「トリーカ創立30周年記念感謝の夕べ」


創立30周年記念_永年勤続社員表彰名簿PDF

「トリーカ創立30周年記念感謝の夕べ」は平成3年(1991)10月鳥取市において行われました。会社の第32期に当ります。
その年の5月に高田社長に替ったばかりで、当然何かと落ち着かない時期でした。
でも30周年行事をするなら決心しなければならず、確かワコールの池野啓爾副社長に相談した記憶があります。
「一般的に20、30、50周年はやれるものならやった方が良いでしょう」とのご意見があり、急遽やる事に決定しました。
前回20周年に経験しているので、決心は案外早く出来ました。
ワコールから塚本幸一会長と、塚本能交社長のお揃いでお出でを願うし、池野、池澤、小嶋、福永さまその他の方もお出で戴きました。
相談役に引かれ式次第に出番の無い宗安さんに登壇の機会を作る為、塚本幸一会長のご挨拶の中で壇上に宗安さんを招き上げお二人が肩を組んで思い出を語っていただきました。
うれしい演出だったと今でも思っています。
塚本能交社長のご挨拶は「トリーカとワコールは恋愛関係で、結婚はしない」と言われたのが強く印象に残っています。
このお話はその後も使わせて戴いていますが、両社の関係は「緊張感のある恋人関係」であって「魅力が失せたらお別れを意味する」と私は解釈し覚悟を決めざるを得ませんでした。
ワコールから見て、トリーカの魅力は何でしょう。日本国内の縫製工場として魅力がありますか?。1000人の生産力でしょうか? QCD+Sでしょうか?
その時代、時代の備えるべき魅力があるのかも知れませんね。
皆さん考えてみて下さい。

30周年は高田社長にとって最初の大行事でした。でも皆さんのご支援のおかげで盛大に、かつ成功裡に出来たようです。ありがとう御座います。
前回の20周年記念当時のメンバーと比べ当然変化もあります。トリーカ役員の中にも亡くなられた方も居られます。無常ですね。
ここに日本輸出縫製品工業協同組合連合会から北野一三専務様のお名前もあります。
その後の「研修生受入れ事業」に取組むべくトリーカの背中を押して戴いた方ですし、現在に繋がる大切なお方の名前が御座います。あり難いことですね。
当時を想像していただく為、上に当日の資料の2~3点と、当日の社長挨拶をここに挙げておきます。

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「トリーカ創立30周年記念感謝の夕べ、高田社長挨拶の原稿」

皆様本日はお忙しいところ、私どもトリーカ創立30周年感謝の夕べにご出席を戴き誠にありがとうございます。
ただ今紹介のありました様に、私は今年5月社長に就任致しました者で御座います。
社長就任早々に創立30周年記念の会を催す事が出来、かくも多くの皆様のご光来に預かる事は私の無上の光栄と存じるものであります。
若輩者で御座いますが、今後一生懸命社業に精進する覚悟でございますので何卒よろしくお引き回しの程お願い申し上げます。

さて、私どもトリーカは昭和36年鳥取県工場誘致企業第一号として、西伯郡名和町において発足いたしました。
当初は旭化成様のベンベルグ7色パンティ等の生産から始り、昭和38年ワコール様との初めての取引きが出来ました。その最初の発注書を私に下さったのが本日お出で戴いていますワコールの池澤常務様で御座いまして、それ以来ワコール様との今日に到る長い長い歴史が始まった訳でございます。
当時は会社の名前も鳥取西村メリヤス(株)でございましたが、昭和47年現在のトリーカに改称致しました。
その後、ワコール様、蝶理様、はじめお取引願った沢山のお取引先の皆様、そして鳥取銀行様、あるいは地元鳥取県市町村の方々に支えられまして今日に到りました。
現在トリーカは社員1100名、子会社タクト等を含めグループ合わせ1500人以上の規模となっております。
ただ今お座り戴いていますテーブル番号に替えて、古い日本の国の名前を書いておりますが、それが現在の工場所在の国で御座いまして、因幡、伯耆、出雲、但馬、美作、備前、肥前、薩摩、攝津の九ヶ国で御座います。
この様に今日ありますのも皆々様の心からなる暖かいお引き立てと、会社創業期ご苦労されました諸先輩の方々、叉、宗安前会長、福永前社長様の長年月に及ぶご苦心の賜物と感じ入る次第で御座います。

ご承知の様に縫製工場は人手不足、高齢化、労働時間の短縮など多くの経営課題を抱えております。
私どもトリーカもこれらの問題を避ける事無く真正面から取組み、女性インナァーファッションのものづくりに専念し、1000人の高度な技術者集団であると言う見地から、自信をもって努力すれば必ずや道は開けるものと信じております。
私達は働く社員が基盤の企業でございます。
社内の労働組合の皆様と互いに知恵を絞り、力を合わせ、トリーカを発展させたいと念願し覚悟しているものであります。

トリーカはお陰様で創立以来30年まで参りました。これからも変わりませず皆様のご支援お引立てを賜ります様心からお願い申し上げます。
本日は何のおもてなしも出来ませんが、どうぞごゆっくりとおくつろぎ戴きたいと存じます。
最後になりましたが皆々様のご健康と益々のご発展をお祈り申し上げ、トリーカ創立30周年感謝の夕べのご挨拶とさせていただきます。
ありがとうございました。
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2006. 6. 3 高田

第68話  「トリーカ基本概念の模索」

「トリーカ基本概念の模索」

ちょっとかしこまった標題になってしまいましたね。
少し遡りますが、昭和62年(1987)11月宗安社長が会長に引かれ、福永兵一郎社長の新体制が生まれます。
それまでは社内の会議体制としては、社長主催の「工場長会議」が方針伝達、意志確認、情報交換等の機関であり、別に「常務会」がありましたが、意思決定そのものは宗安社長に集中していて、常務会は追認や課題共有の場であったと思います。
福永社長となり、役付き役員による「経営会議」が新たに設置されました。
社長主催の会議であり、常務、専務、会長が参加するもので、取締役会上程予定の議案事前審議や年次計画その他経営上重要な案件審議をするものです。
当然社長の決断や指示方針を共有するものですが、宗安社長と少し異なり福永社長の発案される“相談の場”と言う色合いが強まったと思います。
つまり従来に比べ少し会議の性格が変化した訳です。
でもこれは結構大きな変化とも言えたかも知れません。
第1回が昭和62年12月に開催されました。
翌年の63年3月の第4回会議の案件に「ワコールから米国ワコールの為の生産工場を、ドミニカにトリーカが工場を設立し、その運営もやらないか、と言う協力要請がある」として審議されています。
福永新政権に最初のとんでもない大きな課題がワコール塚本会長から提起されたのです。
この件はワコール内部でもほとんど検討されず、塚本会長のアイデアが先走りして、トリーカが踊らされたきらいがありますが、その後福永社長と高田専務がニューヨークの米国ワコールからドミニカ、コスタリカなどの現地工場を訪ねるところまで進展します。
しかし現地サイドの意見は慎重意見や反対の見解ばかりで、結局この件は尻すぼみに消えてしまいました。
何の事は無い社長と専務が米国訪問をして中南米まで足を伸ばしただけに終わりました。
私としては珍しい土地を訪れる体験が出来て感謝ですね。
この時宗安会長は「5億円は覚悟した」と後日話されていましたが、本当にトリーカが進出していたらずいぶん苦労していたと思います。
中国や東南アジアの国と異なり、白人系の国では日本人は格落ちに見られ、例え黒い肌の社員でも、日本人を尊敬はして呉れない国情ですね。
塚本会長には「やや難しい感触です」と報告し、話が立ち消えしてくれて良かった事件です。

経営会議は会を重ねてずいぶん勉強になりました。
いわゆる経営上の意志決定に関与する事は、全体経営への参画意識と課題の共有感が強まります。
これらの伏線がその後のトリーカ番頭経営、集団経営体制に変化していくと言えます。
福永社長の時代は丁度ワコールの販売量の拡大上昇傾向が停滞していた時代で、トリーカとしては受注量に不足が生じ、対応に苦労します。ただこの傾向はその後も続き他社取引きの開発や人員削減やひいては、工場集約に進みます。
創業以来続いていた成長拡大の時代が終わったのですが、なかなか縮小や撤退と言う後ろ向きの考えを受入れることが出来なくて苦労するわけです。
でも福永社長の4年間も順調に利益決算は出来て、塚本会長も株主総会にほとんど出席されたと思います。「赤字決算なら出席しないぞ!」と釘を刺されていたのですから~。
福永社長はワコール出身の立場上何かとご苦労されましたが、その分我々は経験し成長出来たように思います。ありがとう御座いました。

平成3年(1991) 5月高田社長になり、いろいろ思案しなければならない立場になりました。
今となっては当時のことも春の霞の彼方のようで、おぼろにしか思い出せませんが、私なりに一生懸命だったでしょう。
宗安会長が相談役の立場で毎日出社されていましたから、実質的には心配していなかったと思います。毎日ことごとに相談すれば良いのですからずいぶん安心です。
私と宗安さんとは22歳の違いがあります。院政もなにも関係ありません。
東西メリヤス以来30年以上の師弟関係みたいなものですから息もぴったりで、何の違和感もない社長と相談役の関係だったのです。
名前なんかどうでも良く、関係ありません、宗安さんは宗安さんです。
でも、公式の立場では私が大きい社長室に入り宗安さんは小さい相談役室で、当初は少し戸惑いました。この点なども宗安さんは明確に線引きされ立派でしたね。
両方の部屋を行ったり来たりでしょっちゅう相談に乗っていただきながらやったものです。
そんな強い後見人に恵まれた幸せな社長で、私もそれなりに頑張ったのですが・・

就任早々に30周年行事のことがあり、また、その頃鳥取地区の裁断自工場化と言う構造改善を進めていましたし、合わせて鳥取センターを閉鎖し名和工場と併合しました。
この頃、あれやこれやと浮わついた中にも、トリーカとして「基本理念」的な考え方のまとめを私は考えていました。
以前から「社是」は有りました、これは現在も唱和しているものですね。
これに加え社長としても、自分自身がよりどころとする会社の在り方と言うか、基本的な方針や理念を文字として確定したいと思っていました。
何かまとまって理論的にも精神的にも柱となる考え方を持ちたかったのです。
当時の世の中は、平成元年(1989)年末の日経平均は39000円に近付き天井をつけて、翌年から下がり、地価の下落等いわゆる「バブル経済の崩壊」が意識され始めたのが91~92年です。そんな91年の5月に就任したのです。
1989年は昭和天皇の崩御、平成と改元、消費税開始、連合発足、そしてベルリンの壁崩壊など変化の大きい年でした。
共産主義の崩壊はその後の世界経済を大きくゆるがせ、やがて中 国の開放、市場経済参加となり、「世界適地生産の地図」を大きく書き換え、それは我々トリーカを「世界市場や國際価格」そして「価格破壊」に到る「國際競 争」の運命の渦に引き込む大きな難題に拡大して行くのです。
日本経済はそれ以来実に「暗黒の15年?~現在?」が続くのですが、当時そこまでの危機意識を持つ者はは何処にも無かったのではないでしょうか。

トリーカでは鳥取地区工場の「赤字体質が表面化」し、それに加え「労働時間の2000時間への短縮」とか、「定年55歳の60歳延長」など労務課題が叫ばれていました。
90年からスタートした「30/30増減運動」「生産性向上運動」等も余り成果の無いまま「掛け声倒れの手詰まり」状態だったと思います。
この頃ワコールに対しては、「仕事量の確保」と共に、「加工賃率のUP」を交渉しています。有り難い事にワコールはインフレに合わせ基本賃率を年々改正して頂いていました。
1970年美作工場で当初ブラジャーを手がけた時点で1000円の加工賃率は1991年では
1600円程度になっていました。恵まれた環境ですね。
下請け加工業態では売上賃率のUPと生産性UP、そしてコストダウンの三点が成果を上げる構成要素です。
しかし永年この業態に棲み付くと、自立心の欠如、あなた任せの寄り掛り体質、向上心の欠如など甘えの弊害が生まれます。
「甘えの構造」はそれが可能な間はハッピーですが、ビジネスの世界でそんな事は続くはずは有りません。
世界の大きな変化から来る漠然とした不安や、実際には旧態依然としたトリーカの体制の中で「頑張れば生きられるのか?」と言う不安を感じながら、「トリーカのあるべきす姿」を少しづつ模索し続けました。
そんな背景の中で私は「トリーカルネッサンス構想」と言うキゃチフレーズでトリーカの再活性化を計ろうと訴える事となります。

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2006. 6. 5 高田

第69話 「トリーカ・ルネッサンス」

「もう一度元気に!~トリーカルネッサンス構想!」

高田体制になった当時、私はトリーカ自体の状況を一言で言うなら「停滞」の様に感じていました。甘えとか、ワコールに対する寄りかかり体質です。
「お日様西々、かね来い来い」これはある工場で聞いた工場長の悩みです。
「みんな出社して時間の過ぎるのを待ち、給与はキチンと持って帰る」と言う意味です。
この言葉はその後現在に至るまで私の頭にこびりついている課題です。
時間内さえ無難に過ごせば、人並みに給与は貰える~と言う非常に意欲が低下して、甘えの極限にあるムードになりつつある様に感じたのです。
自分一人だけ頑張っても仕方がない~そんなムードは集団で仕事をする場合なんとしても排除しなければならない意識ですね。
これがずっと後に成果主義に労務改革を行わざるを得なくなる認識の根底にありました。
本来はちからを持っているのだけれど、管理体制や動機付けなど指導不足で意欲が低下している。かって元気に働いていた皆さんの工場職場に帰ろう。もう一度やり直そう!
もう一度若々しい意欲に富んだ、人間の働くトリーカの工場に返ろう!
そんな意味で「トリーカ・ルネッサンス」の呼び声で元気を呼び起こそうとしたのです。
1993年1月14日、年度方針発表会において、以下の考えを述べています。

――――――――――――――――――――――――――――――――――

「今後のトリーカを考える、トリーカルネッサンス構想」概案  1993,1,14
社長 高田辰義

(1)私は「健全なトリーカ」の存続発展を計りたい。
(2)「健全なトリーカ」とは、「ものづくり」を通じて、女性美の創造に貢献し、併せて 社員の幸福な生活を追及することであり、これがトリーカの社会的存在使命だと考える。
(3)つまり、社員にとって会社は「自己実現の場」となり、会社も個人も「共存共栄」で、経済的、精神的にも充実感のある「人間主体企業」を我々の手で作り上げたい。
(4)そこで今後の戦略「トリーカルネッサンス運動」を以下の様に考える。
①トリーカは「ものづくりが企業基盤」であり、その質的強化の努力を継続する。
②縫製業は「知識集約産業」と心得て、高感性・高品質・高効率へ「1000人の知恵」を集め「考えるものづくり」=「仕事研究集団」化を我々の武器としたい。
③高級ブラジャー主体の「カップ指向」を推進し、国内の「オンリーワン企業」を目指す。
④当面は「忠実な下請け加工業態下」で、「信頼されるQCD保証の体制」が急務であり、高いレベルで達成すべき製造管理の体制である。
⑤次の段階は、QCD生産体制を基盤として、下請け加工からの脱皮を目指したい。
トリーカの強みは「ものづくり現場」と「1000人の女性生活者」を擁している事であり、これを武器として「付加価値の高い加工形態へ転化」する事である。
⑥これはトリーカ思考「ものづくり現場からの発想」による設計仕様の提案、商品提案、及び並行した部分自動化、省力化等の生産手法の開発・創造である。
⑦この為設計開発部門である「スタジオ・ぺぺ」の強化を計りたい。
⑧更にトリーカは、ワコールの発展を念願し、ワコールへの貢献、「ワコールグループ内における企業存立」が基本コンセプトである事は、過去も将来も不変の認識である。
⑨その上でトリーカは、自主自立の経営責任意識を持ち、ワコールとの通常ビジネスは「市場原理に基く緊張感あるビジネス関係」でありたい。そのスタンスでなお必要とされる企業へ、トリーカはその様な「魅力ある存在」にならなければならない。
⑩一方今後のトリーカは、ワコール以外の得意先も開発し、社員の自立意識への刺激剤としたい。これは経営の多角化であり精神の強化剤である。
⑪そして、遠い将来は「OEM企業」を目指したい。
“ワコールのアイデアを受けて、トリーカがトリーカの製造仕様でものづくりし、ワコールブランドで販売される”・・・こんなかたちが「トリーカの夢」ではないだろうか?
⑫ものづくり体制の質的強化、経営基盤の確立の目途がつけば、「株式公開」と言う共有しやすい目標(トリーカ・ロマン)を掲げ、自分の足で立つ真の自立企業を目指したい。
以上
――――――――――――――――――――――――――――――――――

今この文章を書いて色々感じます。
皆さんに呼びかけると共に、自分自身にも進むべき方向を明示して居るのです。
21世紀に通じる考え方もあると思いますがどうですか?
そして、だいたいこの基本思想に基いて私はその後のトリーカ経営に携わってきたつもりです。
第一次中期経営方針書などこの構想から出発しているし、当時ワコールにもこの様にトリーカはありたい・・・と訴えています。
具体的に出来ているものもあり、考え方としては持っていても出来ていないものも多いですね。
ルネッサンスは人間復興とか文芸復興とか翻訳されるもので、中世の人がギリシヤ時代の人間が活き活きと暮した時代に回帰したいと願ったもの・・・と聞いています。
トリーカもそうありたいと願ってネーミングしたものです。

今後についてもどうぞ皆さんで深く考えて欲しいと考えます。
将来のトリーカはどうあるべきか? 広く考え、討論し、具体化して戴きたい。
トリーカの集団経営体制とはその様なものかも知れません。
次に、この中にも出て来た「人間主体企業」についても述べておきたいと思います。
北朝鮮の主体思想とは違いますからお間違えのない様に願います。

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2006. 6. 6 高田

第70話 「人間主体企業」

「人間主体企業」



「人間主体企業」について~少しかたいお話みたいですがお付き合いください。

トリーカとは何なのか? トリーカはどうあるべきか?~を考え続けて出した言葉が「人間主体の企業」でした。
これは私の造語かもしれません。
資本主義とか人本主義とかの言葉がありますが、そう言う言葉で表現出来るのかも知れませんが、ともかくトリーカは社員が中核となって実際に汗や涙を流してものづくりする会社です。
沢山の社員そのものが会社の力です。
社員は工場の近くに生む女性が多く、仕事は“具体的なものづくり”です。
この広い世界の中でトリーカにご縁のあった者たちの集団であり、活き活きと働き、充実感を感じることのできる、自己実現の出来る、「人間そのものが生きる場」でありたい。そんな願いをもって会社経営もありたい・・・と考えました。
これは私の気持の根底にあるもので、大げさに言えば経営哲学なのかも知れません。
丁度1995年(H7年)の年頭所感で「政経レポート」と言う冊子に文章を載せています(上記に添付)ので、そこからの転記と少し加筆してみましょう。
1994年年末に書いたものでしょうが、前年に第一次中期経営方針を発表し、続いて人事制度の改革に取組んで人事理念を制定したりしつつ、国内存続を検討していた時代です。

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1995,1,5 山陰政経レポート第597号記事“年頭所感”

「人間主体の企業づくり」       トリーカ社長 高田辰義

新年明けましておめでとうございます。
新しい年明けを迎えましたが、「景気が良くなる」等の期待は持たないのが当たり前の時代になってしまいました。
特に私どもの「女性下着」は、成熟業界である上に、海外生産品との競合が大きな課題です。繊維関係の海外生産は早くから行われましたが、昨今の「円高」から、縫製工場を筆頭に生地・レース・部品業者などが続々と生産拠点を中国その他の海外へ移転し,産地を形成しつつあります。
これに伴い、海外生産された商品が雪崩の如く日本市場に流れ込む事となりました。
私ども国内業者の加工賃程度の金額で商品の小売価格が設定されています。
「製造業の空洞化」とか「価格破壊」など巷に言われますが、まさに我々の業界構造そのものです。
これらに関しては今年も益々厳しいかたちで迫ってくる事と思われます。

この様な環境の中ではありますが、当社は「国内縫製企業」として日本に踏み止まり、生き抜こうと決心しています。
縫製業は典型的な「労働集約業種」であり、「適地生産」の考え方で判定すると、国内生産は最初に不適格の烙印を押され、例えば中国などが最適正地と判定されるのでしょう。

それでも私は国内工場存続の意義を次の様に考えています。
①日本女性は価格に敏感であるが、自分の好みや感性に合う商品への「微妙なこだわり」が必ずある。
②日本人女性の細やかな琴線に触れて、真の満足を与えられる製品は、同じ文化に生きる日本人にしか作れないのではないか。
③だから、我々は「本当のものづくり」を行って日本女性に応えたい。
④更に、女性にとって「糸と針の仕事」は古来天職と言えるものであり、しかも、部分品でなくてひとつの完成品を作り上げる事は、自然なことであり、女性本来の落ち着いた喜びを得る仕事である。
⑤多くの女性社員は家庭を持ち、子供を育て、地域と付合いを行う立派な「家庭経営者」である。当然仕事においても意義のある「自己実現の場」を持つべきである。
⑥この意味において、彼女達が家庭の近くの工場で、仲間と共に、自分達が主体性を持って仕事を進めることの出来る「縫製の職場」は理想的な職場である。
まさに「人間そのものが主体となる職場であり、企業である」
⑦趣味の楽しみに自分の生きがいを見つける人もいるだろうが、人間と生まれて生産的な仕事の中に生きがいを持つ事は「本当の生きる意義」を持つ事である。
また、仲間達と共に考え、苦しみ、また成果をあげ、共に喜ぶ事は、一人で楽しむより数倍の喜びを体現出来るであろう。
⑧「私はここに生きていますよ!」と高らかに叫ぶ事の出来る社会性こそ「自己実現」であり、「人間そのものを主体とした企業」であると言えないか?

以上手前みそを並べましたが、国内縫製企業が各地方の一員として果すべき使命を感じ、工場存続への社会的意義を思うのです。
言うまでもなく事業経営は課題山積です。
社員の高齢化、労働時間の短縮、コスト逓減、自動化開発等キリがありません。
いずれにせよ私達は鳥取県名和町に生まれて以来、おかげさまで三十数年を生きて参りました。
この間3000人以上の先輩社員の手を経由して「トリーカ」を引継ぎ今日に到りました。
いま、私達は社員を主体として社員の人間力が形作る会社を目指しています。
この「人間主体」の人事理念のもとに、日本一のブラジャーづくりを続け、やがては世界中の女性に、日本文化に根ざしたすばらしい商品を送出したいと願っています。

こんな思いであの強い中国と競争・共存できますやら、ともかく1000人社員が力を合わせて今年も頑張ります。
本年もよろしくご指導を賜ります様お願い申し上げます。

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上記は1995年平成7年の新年号の文章です。

トリーカの縫製業としての特異性、人間主体の職場としての考え方、そんな事を読み取りいただけると幸せです。
トリーカ経営の基本理念とも申せる思いで私は大切に持ち続け、考えてきたものです。
どうぞ皆さんも考えてみて欲しいのです。
私達トリーカの職場はどのようにあるべきなのでしょう。
私達はどのような考え方で働くべきでしょうか?
お金の事もありますが、それ以上に大切なことは、楽しく、手応えがあって、仲間と共に働き、考え、汗を出し、涙し、喜びも共有出来る生産的な職場に生きる事です。
さらに自分達が主体となって働く、自分達の意志を表現しながら運営出来る職場は、その経営自体が社員の自己実現に近いのです。
“私はここに生きていますよ!”
自信をもって、誇らしげに叫ぶ事の出来る、それが可能なことなのですから、その様なトリーカの職場にしてゆきたいものですね。

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