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トリーカ昔物語

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2006. 6. 7 高田

第71話  「トリーカ・タクト本社移転」

「トリーカの本社を大阪へ・タクト本社の移転から合併まで」



トリーカの「本店所在地」は、昭和36年創立時以来は名和町に置き、その後昭和47年2月社名を「トリーカに改称」した時、鳥取市に本社移転しています。
しかし、ほとんど創業時から経理部門は「鳥取分室」の名前で、鳥取銀行の至近地にありました。だから分室が本社に昇格したようなものでしょうかね。
トリーカになって昭和52年第16期に鳥取市栄町の日の丸印刷ビルに移転しています。
鳥取駅前にある立派なビルで、トリーカもだんだん一人前になってきたのでしょう。
その5年後昭和56年に創立20周年記念式典を行い、名実ともに鳥取県の優良企業の仲間入りが出来たのではないでしょうか。
その頃昭和54年にはトリーカの株主も蝶理の持ち株全てがワコールに移り、名実ともにワコールの子会社となっています。
でもトリーカの場合、経営意識としては非常に自立意識が強く、資本の論理で考えることは極力避けて来ました。
ビジネスとしてワコール比率が異常に多いことや資本の56%が持たれている現実はあるのですが、ワコールの内から生まれた「譜代大名」ではなくて、トリーカは遅れて来た「外様大名」であり続けたと言えます。
ワコールグループ内にありながらトリーカが何となく子会社意識が少ないとすれば、それの良し悪しは別として、出資を受けた時から「自立の思い」が強かったのです。
本来は完全に別会社なのだが、諸般の事情で(それも外部的事情で)資本の移動がされてしまった~と言う思いがあるのかも知れません。~どうでしょうね?
きっと今後も外様でありながら、「期待される・魅力ある企業でありたい!」と言う企業姿勢が続く事と思います。

さて、だから当時も資金的には親会社ワコールの世話にならず、自前で調達する苦労はあったのでしょう。資金面では鳥取銀行に応援してもらいました。
当初は蝶理の後ろ盾を得ながらの鳥取銀行との関係だったのでしょう。
通常企業経営が厳しい時、取引銀行を多数に広げて資金調達するのが多いと思いますが、トリーカは基本的に鳥取銀行一行主義で現在まで来ています。
危なくて他の銀行には相手をしてもらえない、そんな時期があったのかもしれません。
その意味で鳥取銀行は終始一貫トリーカを支えてくださった恩人です。
厳しい時代に支えてもらったから生き残り、現在のトリーカがあるのです。同じ様な境遇で生き残れなかった企業は消えて行ったのですからね。
そもそも、東京オリンピックの直後、西村メリヤスの経営破綻の時、連鎖倒産にならずに生き延びたのは、鳥取県や地元町村の応援を受け、鳥取銀行が窓口となって支援してくれた経緯がありました。
だから、トリーカは鳥取県が本籍地のようなものですし、心の故郷でもありましょう。
当時トリーカの本社は登記上の本店所在地である以上に「鳥取県の企業」でもあるのです。西村メリヤス破綻以降ずいぶん長い間鳥取銀行の支援と監視を受けていました。
だから本社と言う名前の経理部門は鳥取を離れられない事情があったのです。
いろいろ恩義や経緯がありますね。企業の長い歴史の中には色んな背景があり、それで助けられたりした訳でしょう。

前置きのお話が長かったですが、福永社長の時代に大阪への本社移転の話がありました。確かワコールの意向が強かったと思うのですが、「本社を大阪の茨木に移してはどうか?」と言うものです。現在の場所ですね。
当時すでに九州の工場も多く盛んで、もはや「鳥取のトリーカ」 とは言えない実態にありました。まして宗安会長、福永社長は茨木にある「大阪営業所」に常時居て、営業体制も工場管理も、当然ながら経営トップとしての意 思決定や指令も発せられ実質的な本社機能は大阪にありました。
更に経営成果も順調に続き借入金も減少すれば、鳥取銀行の監視業務は不用になっていたと思います。通常の対銀行業務は「鳥取銀行大阪支店」で充分に可能です。
「大阪に本社を移したい」と言う申し出は鳥取銀行に伝えられましたが返事はNOでした。
具体的な反対理由は知りませんが、「銀行支援で立派に成長した地元企業を、大阪に渡してしまう事は、長い歴史を知る者にはしのびないない~」と言う心情的なことだと思います。
鳥取銀行の八村信三会長から宗安会長に連絡があったようです。
「わしの居る間は諦めてくれ!」~これが宗安会長の結論でした。
苦労した時代に助けてもらって、元気になったからハイさようなら~は出来ない。
そりゃそうですね。本社所在地と言うのは結構意味のある重要なことですし、人と人の結ぶつきはそう言うものなのでしょう。
その時はそれで一件落着となり、ワコールさんも納得された様です。

平成3年に高田社長になり、「トリーカ創立30周年記念式典」を鳥取のホテルニューオータニで開催した直後、大阪への本社移転を再度俎上に上げました。
鳥取の皆さんにお世話になって30年と感謝とお礼を述べた直ぐ後で、申し上げにくいタイミングでしたが、この時はワコールの意向ではなくて、私自身の「どうしても移転したい強い意志」として発案したのです。
そもそも企業経営において、財務・経理業務と言うのは社長直轄 部門であるべしと私は考えていました。宗安時代は複雑であったにも関わらず、離れた大阪で充分把握されていたと思います。それだけの経験も力もお持ちです からそれはそれで良い事ですし、移転したくても出来ない相談だったのです。
でも私は銀行との付合いはゼロでしたし、経理部門も知りません。
まして経理や総務が離れていては、社長の知らないまったく他人事になる恐れがあります。心臓と頭脳が別々の場所にあると言うのはどう見ても不自然ですよね。
「本社の大阪移転は社長交代の今しかない」
「今を逃すとまた引きずる事となる」
「新米社長だから経理・総務など手元に置きたい」
宗安相談役には考えを話しましたが反対されませんでした。
本社の皆さんには私の願いを聞いてもらいました。
当時の本社メンバーは瀧田孝友常務さん、桑本茂樹部長さん、そして男性二人、女性二人だったと思います。
瀧田常務がすべてを請負ってくれました。自分自身の引越しのこともあるが社員のこと、そして鳥取銀行への説明などすべて進めて戴きました。
今度は銀行も引越しを納得して了解がとれました。
新社長の方針と言う事で矛を納めてくれたのでしょう。
「若いもんは何をいいだすやら~」と半ば諦めて了解戴いたのかもしれません。
大阪に転勤できない女性の転職先も瀧田常務が手配されました。
結局転勤したのは瀧田常務と桑本部長、男性社員一名だったと思います。
あれこれと皆さんに迷惑をおかけしましたが平成4年の7月引越しは実行されました。

このトリーカ本社移転と併せ、タクトの本社移転がその直前にあります。
タクトは昭和55年(1980)設立され、当時トリーカ大阪営業所の一階に本社を置きました。丁度現在のビデオ会議など行う会議室の場所を使っていたのですが手狭で困り、堤社長が決心されて同じ茨木市の上泉町に平成4年の春引越しされました。
もちろんトリーカの本社移転の案件が出ると共にタクトの転出も並行的に検討されたのです。
何となく押し出す様に感じられたかも知れませんが、長年同じ建物で居たタクトが出て行く事はやはり寂しいものでした。
まして私は自分が社長になって直後の提案でしたから、もっと近くにならないのかなあ~とも思いましたが、車で5分位のところですから、とやかく申すことではありません。
しかし株式をトリーカが100%もっておれば、連結決算の完全子会社である以上対外的にはトリーカに最終的な経営責任があります。
新人社長ですがやはりその点は気になりました。親子会社間の考え方ですね。
この点などは宗安社長と堤社長の関係と、私と堤社長の関係では少し温度差があるのは仕方ないことなのでしょう。

タクトはその後平成6年6月に仙波清重社長が就任されます。
仙波社長はその直前までトリーカの専務として、外向き営業の竹中常務と共に、内向きの仙波専務の立場で総務労務工場関係など全て内側を見て頂いていた方です。
私とは東西メリヤスの時代からの先輩で編み立てから縫製にかわり大阪までご苦労をおかけしました。
タクトとはSTMによる幹部教育など堤社長の時から一緒にやって来ていましたが、仙波タクト社長にかわり、トリーカ・タクト全体の人事・労務制度の抜本改正に向けプロジェクトを一緒に進めます。
労働組合対応や労務制度は会社側窓口を両社一つにして、ほとんど同じ対応になってきました。

忘れてはいけません「スタジオ・ぺぺ」のこともあります。
スタジオ・ぺぺは自社企画提案をウイングに行う事を目指して平成元年に設立しました。当初は現在の本社食堂を使ってレース染めなど行いながら提案サンプルを作り、丸尾常務がウイングと商売していました。
ウイングも乗り気で発展し、トリーカ・タクトの共用で一時は高槻の駅前ビルに部屋を借り看板を揚げていました。
「トリーカ・タクトでエレベーターに乗る事務所はぺぺだけやな~」とはやしたものです。新しいビジネスの開発には経営方針も、お金もかかるし、人脈も要るし、と管轄をトリーカに集約しました。共用はどっちつかずでは難しいのです。

そして平成7年10月に宗安相談役が亡くなられると、トリーカとタクトを繋ぐ連帯感に何となく隙間が感じられます。これは私だけの感覚かもしれませんが宗安さんの強い求心力が失せると、やはり集団は別々に動く気配があります。
「仙波さん、我々の居てる間に合併した方が良いと思う」
「工場にはトリーカ・タクトお互いを知らない管理職も生まれつつある」
「溝は浅いうちに埋めたほうが良かろう」
「今なら元に返る事が出来るメンバーや」
ワコールの了解、鳥取銀行の了解、社員・労働組合、その他大きな反対も無く方針は了解され、前年に決算期の変更など条件を整えて平成10年(1998)春合併しました。
この合併は宗安さんがご健在なら反対されていたかもしれません。
私としてはオールトリーカの将来のことも考えた上での結果でしたから、いつかは宗安さんのご賛同を受けねばならない確信犯的決意の案件でした。

現在に到って考えても、鳥取からのトリーカ本社移転もタクトの合併も正解だったと私は思っています。
タクトが別会社で存在すればどうしても人の心は自己中心的とな ります。両社は別の動きが基準となり、この厳しいビジネス環境に「オールトリーカの強み」は発揮しにくく、結果的に両社とも弱体化しているかも知れませ ん。大きいキャパを持って自在に対応出来るのはトリーカの得意技ですからね。
また、鳥取の地域とはその後、意識して懇意にしてきました。
鳥取銀行は当然ですし、県庁、商工中金、中央会、輸出縫製品組合、繊維工業組合、同業者の方々、その他機会がある度に挨拶に回り、疎遠にならないよう注意した積りです。
特にその後、鳥取県輸出縫製品工業協同組合の理事長を私が受けて後は、瀧田さんがその業務のほとんどを順調に進行していただきました。
地元の皆さんと繋がりの強い瀧田さんだから出来たのです。
もちろん瀧田専務は宗安さん時代から通して地元の皆さんと仲良しでした。
宗安さんの功績は偉大でした。鳥取県の何処に言っても宗安さんの話が出ます。
皆さんの記憶に残り皆さんに愛された宗安さんでした。その余韻で私は鳥取県に入りこみ受入れられた様に思います。
宗安さんと瀧田さんのおかげをもって、私は本社移転にも関わらずその後も鳥取の皆さんとうまくやってこられたと思います。あり難いことですね。
瀧田さん大変ご苦労をおかけしました。ありがとうございました。

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2006. 6. 8 高田

第72話  「ちょっと横道」~ホールインワン

「ちょっと横道~ゴルフはホール・イン・ワンのお話」



このところ少々お堅い話が続いてウンザリされているかもしれません。
宗安さんと言う巨大経営者から番頭が受継ぎ、必死になってあづっているところですから、その頑張りに免じてお許し下さい。
今日はちょっと横道にそれて、景気良くゴルフはホール・イン・ワンのお話です。

平成3年(1991)高田社長が就任し、その秋「トリーカ創立30周年記念式典」を開催し、その頃永年続いた鳥取地区の「裁断センター~鳥取センター」を閉鎖して、各工場で自己完結するべく「裁断の自工場化」と言う、大きな生産の仕組みを変更しています。
また、翌4月「トリーカ・ルネサンス構想」発表とか、タクトの本社移転に続き、トリーカの「本社移転」も7月に行われています。
結構色々忙しい時代なのですが、そのなかお遊びの方も元気にやっている様です。
夏の連休を活用した遠出のゴルフで北陸に行ってます。
この頃は元気でしたね 一日に2ラウンド36ホール回ったこともあります。

平成4年7月26日、片山津ゴルフ倶楽部での出来事です。
日本海コースは海岸べりのコースで横風の強い日でしたが、風を読み距離を合わせた私の打球は、あたかも意志のあるかのごとく、カーブを描きつつポールに向かいほとんどカップを直撃して入りました。
実際は良く見えなくてグリーンオーバーかと思ったのですがカップの淵が壊れていましたからね。
思えば難しい条件ながら神懸り的テクニックで吸い込まれたのでしょう。すばらしいショットでした。~少々過大説明でしたね。
親切な倶楽部で、上記の「ホールインワン証明書」~実物はA4の大きさで立派なものです。併せてブロンズの人形が乗ったこれも立派な置物を呉れました。
嬉しかったですね。
手前勝手に解釈すれば、社長になって張り切っている気力が「運」を呼びこんだのかも知れません。後日、この「運気」については塚本幸一会長からホールインワンのお祝いに 大きく「運」と墨書した色紙を頂戴しました。
運に乗って仕事もがんばれ!と言う励ましだったのでしょう。私の大切な宝物ですね。
スコアカードも残していたのですが見当たりません。当然100前後のスコアです。
その時のパートナーは、竹中さん、安達さん、岩村さんでした。
一緒に行ったもう一組が、堤さん、仙波さん、瀧田さん、そして三耕の鈴木さんでした。前を行っていた組は私のカップインを見てないのです。残念ですね。
達成記念の看板を持った写真は、後日に同じメンバーで行った記念ゴルフの写真ですね。皆さんありがとうございました。

実はもっと以前、練習コースですが、100ヤード程の打ち上げのブラインドになったホールで探したら入っていたと言うホールインワンを経験しています。
この時は桑本さんと丸尾さんと3人で夕方の高槻南平台ゴルフに行った時です。
セルフの練習コースですから倶楽部から証明も何もありませんが、桑本さんと丸尾さんがトロフィーをつくって呉れました。何よりの証明ですね。ありがとう!
だからやや大げさに言えば私は「2回ホールインワン」を達成した事になります。
自慢げに聞こえますが下手な私の唯一の自慢ですからお許し下さい。

さて、ほとんどいつも一緒の竹中社長は私よりずーっとゴルフはお上手なのですが、この話だけはいつも私の勝ちでした。
ところが竹中社長もついにホールインワンを達成したのです。
平成17年5月28日高槻カントリークラブでにやりました。
この時も一緒していましたが、打球はまっすぐにポールに向かい2~3回バウンドし転がって綺麗にカップインしました。高低差もないホールでしたから良く見えましたね。
ホールインワンらしい美しいホールインワンでした。おめでとうございます!
おめでたい事ですがこれ以来私は竹中さんに自慢のネタがなくなった訳で実に残念です。

古いお話ですが、宗安さんはホールインワンを確か2~3回されたと思います。
私はゴルフを始めていない頃なので詳しく記憶しませんが、割合短い間に連続して達成されたような記憶があります。
その頃は「にほん手拭」の記念品でした。にほん手拭にホールの絵が手書きされて打球の飛行線が描かれていたのを戴きました。
宗安さんは熱心な方で東西メリヤスの敷地の中に小さな囲いを作り、毎朝ボールを打って居られました。
寮生の私達が眠っている頃から打つのです。音が聞こえますから」宗安さんがやってはるわ~」と目覚め、そろそろ起きねばと思いつつ寝ていたものです。

まあそんな訳で、「トリーカの社長はホールインワンぐらいしないと一人前とならへんで~」とか竹中さんと二人で後輩にプレッシャーを掛けようかと話しています。~ちょっと嫌味が過ぎますかね?
ゴルフのようにトリーカの会社経営も神様を味方にして運を開きたいものです。 頑張りましょう!

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2006. 6. 9 高田

第73話  「大連ルシアン工場」

「大連ルシアン時装有限公司のはじまりのお話し」



大連ルシアンは、まさしく他社のことなのでここに書く事ではないかもしれませんが、大連ルシアンは宗安会長の思いが実のって出来た会社です。
だから、宗安会長の関わりを通して少しだけ記憶を手繰って見ようと思います。
宗安会長は大正7年の生れです。
昭和16年から始った太平洋戦争に従軍されています。
詳しくは書けませんが、中国の北部から南下し最終南の海まで行かれ、船団で移動されていた時爆撃を受け、海上で何十時間漂い助けられたとか、聞いています。
その出征従軍の中で、当時の満州でしょうか大連にも行かれ、大連の土地に対する思い入れは事のほかあったように感じます。
軍隊で中国の各地を転戦すると言う事はどのようなものかわかりませんが、宗安さんにして見れば忘れられない思い出や、胸の痛む思いでもあったのかもしれません。
駐屯すると現地の民間人との接触もあるそうで「豆腐屋の親父に気に入られて、娘を嫁に貰ってくれと、頼まれてわしは困ったもんや」など、面白おかしくお話を聞いたものです。
ともかく「何か中国の為になりたい。何らかのお返しをしたい」と言う思いは強かったと思います。
同じ様なお考えは塚本会長もあったのではないでしょうか。お二人の息が合ったのは多分に軍隊経験とか、九死に一生を得た体験が波長を合わせてのだと思います。
共に思い出のある「上海駅」を訪ねられたお話も聞きました。
命を賭けた青春時代ですから、中身が非常に濃いものだったのでしょう。

宗安さんはライオンズクラブの会員として、比較的早くから同世代の人と中国に行かれていました。友人で大連にビジネスを開拓している人も居られた様です。
「これは形状記憶合金や、大連大学で開発したらしいが、ワコールのブラジャーのワイヤーに使えないだろうか? 中野部長に訊ねてくれ。」といわれた事があります。
「大連の友人がおくってきたものや」との事でした。
その金属は検査してもらったのですが、やはり品質上まだ使えるものではなかったようでしたが、色々な情報は続いて来ていたようです。
そうこうしている内、「大連で縫製工場の営業許可が取れる。トリーカで工場を作らないか」と発案されます。この件は以前に書きましたが私はお断り致しました。
ずいぶん気持は揺れたのですが、「まず足元の国内工場を固めなくてはならない」の思いが強かったのです。
結局宗安さんが個人的に出資されていた「ブリード」に話が行き、京都のルシアンの製品を製造するべく、ルシアンからも出資され「大連ルシアン」が設立されます。
技術指導はブリードが受け持ち、その新宮工場から指導者が派遣されます。
新宮工場はその昔トリーカの新宮工場としてあり、そこからの支援ですからほとんどトリーカ方式の管理体制です。
既に大連開発区はあったのですが、工場は市内で回りに高層アパートのある地区に、ビルの3F、4Fを使って発足しました。平成4年(1992)の事です。
宗安さんはそこの董事長となられ、大きな董事長室を持たれます。
大連市の副市長さんを後ろ盾に、工場は色々な問題を克服しながら運営されます。
中国に進出した企業が何かと問題を起こす中、大連ルシアンは順調に推移します。
合弁企業でなく日本独資の作戦が良かったのでしょう。
「高田君、この工場は将来トリーカが中国に進出する時の橋頭堡になるからな」と話されていましたが、まさにその予言は的中する事となります。

平成12年ワコールの要請により中国縫製の製品製造については、ブリード中村社長の協力を得て、大連ルシアンによるブラジャーの縫製を委託することとなります。
岩村真二部長の努力により、トリーカ営業二課の単独バランスを計りながら中国生産は拡大され、現在では瀋陽地区において300名の工場展開となっています。
当初望まれた宗安会長の思いは具体化され多くの中国人が職場に働いています。
恐らく宗安さんは「中国への恩返し、工場づくり」のこの姿を望んでおられたと思います。

時は移り現在、ブリードは消え、大連ルシアンはその場所を更に奥地に移動したとの事で往時の姿は望めませんが、ルシアンさんはルシアンさんなりに新たな展開を計られています。
一時はトリーカが大連ルシアンの工場買収を検討したこともありましたが、それもなりませんでしたが、結果これで良かったのではないでしょうか?。
トリーカにとって中国進出の橋頭堡の役目は充分に果してもらったと言えましょう。

トリーカの中国政策は着々と進展し、遅い進出だったかも知れませんが、国内工場の生産メニューを補完し、より幅の広い生産対応が可能となっております。
21世紀には21世紀らしい戦略のもと益々の発展が期待されます。
岩村真二部長をはじめ米子工場、タクト野田・野田 實社長など大連生産に関る皆さんのご活躍をお祈りします。

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2006. 6. 12 高田

第74話  「中期経営方針の発表」

「中期経営方針書事始めについて」 



 長い宗安社長の時代、会社の意思決定は当然として将来にかかわる事もすべての考えが宗安社長の頭の中にあり、その指令で我々は動き、それですべては上手く運びました。
言うなれば宗安社長はトリーカにおける「全能の神」だったのです。
やや極端な言い方ですが、我々も何も考える事無く、嬉々として働いていたと言うのが実体でしょう。
それくらい宗安社長の存在は大きく確かな信頼のもとに全社が動いていたのです。
福永社長の時代になり、ワコール的組織体制や、会議体、意思決定の経過など変化が表れましたが、依然として宗安会長の意向が働いていましたし福永社長もその様な配慮をされていたと思います。
高田社長になり宗安さんは相談役に引かれましたが、だから経営 責任がなくなったとかどうこうと言うのでなく、私としては従来通り相談し判断を仰ぎましたが何ら違和感を感じる事はありませんでした。東西メリヤス以来の 繋がりは年齢の差もあり、役職を超えた人間関係関係は安定した信頼感になって定着していたと思います。
宗安さんは常々私に対し、指示めいた事はほとんどありませんでした。
私が訊ねて相談して初めてお考えを示されるもので、その場合はそれが正解でした。
そのやり方は私が社長になっても変わらず、訊ねない限り宗安相談役からとやかく申される事はありませんでした。
「高田君、ゼロから始めたんやから、ゼロに戻ってもええ、思いきりやってみい」と言う唯一最初の指示が、その後のベースになっていたのです。
新米社長にとってはこれ以上ない励ましの言葉ですね。ありがたいことです。

それでも新米社長とは言え、それなりに方針や考えを社員の皆さんに話し協力を願わねばなりません。
「集団経営体制」もその方向のイメージでした。
偉大な宗安体制から番頭集団に経営担当が世代替わりして行かねばならないのです。
相談役としていつでも的確な判断を示しては戴けます。
でも、指示命令者が宗安さんの場合と、新人の場合は、同じ指令でも受け手の感じ方は変わります。いつまでも宗安さんの威光を借りるわけにもいきません。
虎の威光を感じさせながら新しい方向を出すことが必要と思いました。

18歳の丁稚坊主の時代から実務に携わりつつ番頭になり、その番頭達が会社経営を担当するためには、それまでの経験だけの知識では不安でした。
「みんなが勉強しよう」
「少しは世の中の会社経営の事を学んでみよう」
「集団のレベルをあげて、我々自身の個人能力もある程度レベルを合そう」
そんな思いで当時としては大掛かりな「勉強会」を考えたのです。
当時経営コンサルタントのダイレクトメールは注意して見ていました。
そこから「STM社」と言うところにめぼしをつけ相談しました。
私は良いコンサルタントだと感触を得ましたが、念の為STM社自体について矢野経済に居る友人に調べて貰い「悪いところではない」との感触を得て、開始しました。
平成5年(1993)1月です。
実際には清水桂一先生と言うトリーカを良く理解してくれる先生に会い、その先生の指導のもとに、その後のトリーカは育っていきます。
清水先生は若く明るく大きな声で我々を教育してくれました。
上記の写真は「第一回トリーカ経営戦略研究会」と名付けた勉強会のスタートの写真です。1993,2,16と日付けが入っています。真中の大きいのが清水先生です。
トリーカもタクトも皆んな居ます。
その後のトリーカの歴史を作った「よくやった面々」です。
経営のケの字も知らないような我々は、会社とは、経営とは、事業とは、戦略とは、組織とは、会議とは、制度とは、計画とは・・・等々、初歩から学びました。
宗安全能者の仕組みから新しい社員経営者を育てる動きが始ったのです。
「集団経営体制への事始め」ですね。
すべては小さな最初の芽から始めねばならないのですから~。

もちろん簡単に理解出来るものでもありませんが、それなりに学び、関心は深まって行ったと思います。取締役のメンバーが学び、部長工場長が学び、課長が学びました。
「我々のトリーカ意識」がかなり同じレベルに理解出来たのではないでしょうか。
「トリーカを考える」ことをみんなで一年間やったのです。
そこから、翌年の平成6年(1994)1月「トリーカ中期経営方針書」が発表されます。
「トリーカ・ルネッサンス戦略21」と掲げられています。
これからの5年(第35期~第39期)を見据えた経営方針です。
その後に続く「中期経営方針事始め」ですね。
内容はともかく、本当に自分達の考えがまとまったかどうかはともかく、番頭メンバーが参加して、清水先生の話しを聞き、指導されながらですが、ともかく「現状認識」から「今後5ヵ年間の基本的方針」が印刷物に文章にまとまったのです。
画期的な事です。新しい時代への始りです。
トリーカ経営が何を考えどの様にありたいとしているかなど、従来は宗安社長の頭脳の中にあり誰も見ようとすら思わなかったことが、ともかく文章となり公開されたのです。

この「第一次中期経営方針書」は、会社の現状を「ワコール寄り かかり体質」と認識し、「国内企業として存続」する為「自立した経営体質の確立」を必要とし、されどワコールグループにあって「必要とされる魅力ある企 業」にならねばならないし、この為「ものづくり機能を高度化」しワコールグループにおける「貢献による共生」を目指しています。
この考え方の根本はその後もづーっと続き現在に至っています。
良し悪しは別として、ワコール寄りかかり体質はどの様に自立意識と並立し、なお必要とされる会社になり、ものづくりの力は向上したでしょうか?
貢献と共生は出来ているのか~現在の時点に立ち判断してもまだまだ途中段階と言えるでしょうね。

また、ここで
①トリーカの理想・・「美しく 美しく より美しく、すべての女性はより美しく          あって欲しい・・・・・・私達トリーカの願いです。

②トリーカの使命・・“女性美支援のものづくり”を通じて社会に貢献し、会社の          繁栄と社員の幸福を追求します。

③トリーカの社是・・私達は むだ むら むりのない 明るい会社へ
力を結集して すばらしい社風を作り
作業に責任を持ち 品質の向上に努め
業界のトップに向かって前進しょう。

以上3点をまとめてます。
会社のあり方の根本思想ですね、現在も大切に受継がれています。
その他指針として、「「カップ指向」とか、「オンリーワン企業」「人間主体企業」などの言葉が見られます。
実体は「思いこみ」ばかり目に付くものでした。でも「最初の一冊」です。
その後中期方針は3~4年毎に作られました。
第一次中期経営方針 第35期~第38期
第二次  〃    第39期~第42期
第三次  〃    第43期~第45期
第四次  〃    第46期~現在進行中となります。
中期経営方針書は今後も会社経営の大きな道しるべとして考えて行きたいものです。

少しづつですがトリーカは宗安時代からその仕組みを作り変え、時代に対応し、変化し成長して行きます。でも課題は山積していました。
バブルが崩壊し土地や株式価格などの下落に表れた厳しい経営環境は、ワコールの傘に守られながらも、かって経験しない「世界基準」と言う更に厳しいを要求を突きつけて参ります。

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2006. 6. 13 高田

第75話  「人事制度の改革」

「トリーカ人事・労務制度の抜本的改正に挑戦」



初めてのことですが「第一次中期経営方針」も発表し、トリーカが何を考え、何処に向かおうとしているかを共有する事が出来たと思います。
経営陣の「トリーカ・ルネッサンス」と言う言葉や、「人間主体企業」の文字も少しは慣れてきたことでしょう。
宗安社長から番頭集団への移行が少しづつ進みます。

トリーカの様な「縫製工場」の経営における課題は幾つかありますが、
①仕事の確保
②社員の確保
③工場管理体制
④工場・生産機器の更新
⑤資金繰り、等
と、私は考えます。
「縫製加工業」と言うのは、その「仕事の量の確保と加工賃と言う仕事の質の確保」が重要です。
幾ら頑張ろうとしても仕事そのものがなければ、手の施し様がありません。
安定的仕事の確保と言うのは、縫製工場の悲願とも言えましょう。
その悲願を得る為に、信用信頼を積み上げ、その為にあらゆる経営活動、営業行動、そして日々の工場作業を工夫するのです。今日の操業実体こそ明日の仕事を得る為の努力です。
その点トリーカは、長い歴史の積み重ねの中にワコールの協力と信頼を得て、恐らく国内縫製工場としては稀有な安定した受注体制があり、なおそれの補強努力をしています。
ワコールから見て「魅力のあるトリーカ」と言うのは、その努力の成果とも言えるでしょう。

縫製工場の経営に「仕事の確保」と合わせて重要なのが「社員の確保」です。
トリーカはほぼ常時1000人の社員を擁して来ました。
社員が居ないと仕事は出来ません。まして縫製は労働集約業態と言われます。
「1000人の社員が汗と知恵を出して働こう!」と言うのが基本思想です。
汗を考えれば労働集約ですし、知恵を主体に考えれば知的集約業態です。
知恵を出そうとすれば、仕事への取組み姿勢も前向きになるし、成果への過程そのものに面白さが生まれます。
縫製工場は現代にも稀な人間臭い職場で、人間の根源的な意欲や協調が成果を生む職場です。
人間として大切な労働観を具体的に実行し、新しい価値を産み出すと言う社会的に意義のある崇高な使命を持ちながら、仲間達と活動出来ます。
だからトリーカは「人間主体企業」として、職場を通じた人生の実現を大切にしたいのです。特に女性にとっては最高の職場になると私は本気で思っています。

しかし人間の本質に合った職場だと思いますが、残念ながら高い給与は支払えません。
給金目的の強い社員は離れていきます。
経済原則は市場価格や世界基準、適地生産等々人間性より経済性を優先して生産場所を求めます。
更に他業種に先駆けて國際化に曝されています。実際に國際競争なのです。
ここにトリーカの悩みがあり、経営課題が生じます。
トリーカの人事制度はこの「人間性と経済性の整合」求めて考えなおさなければなりませんでした。

「お日さま西々、金こいこい」のお話は以前に致しました。
体制に慣れてしまい、努力の成果が充分な見返りとして返って来ないと、人間は惰性や甘えに流れやすいものです。
組織や集団は常に刺激がないと、真面目な社員でもダレて来ます。
トリーカもそれぞれの地方や地域に新工場を設立し、応募された社員も当初は活き活きと元気に働きます。でも時間の経過と共に、悪友も出来るし、「朱に染まれば赤くなる」との例え話しは、働く職場の意欲にも当てはまります。
終身雇用を原則とした年功序列の労務制度は、労働組合の活動強化や社会的風潮であった労働時間の短縮、賃上げの慣例化、定年延長、その他、あらゆる社会の動きは労働コストの上昇になりました。
賞与はその工場や企業の業績に関係なく、「世間相場」で要求され強く交渉されました。
また退職金制度は、それが発生するのは何年か将来のことであるが故に労使ともやや気の緩んだ約束をしていたかもしれません。
「賃上げと時短」は単位時間あたりコストを直接的に押し上げます。
このコストアップに対応する為には、加工賃そのものの値上げか、生産性の向上が必要でした。縫製工場における労務費以外の経費コストの比率は少なく、その削減による影響度は非常に低いのです。
ワコール製品の場合、加工賃は良心的に年々上方改訂されました。しかし何処の世界でも当然ですが、コストアップをすべて吸収する加工賃改正が続くものではありません。
工場としては「生産性の向上」に全力で取組みます。
この時注意すべきは、縫製工場の特質として「社員の気持」が仕事のスピードを大きく左右すると言う事実です。
まして、10~20人のチームプレーです。チームが気持を一つに合わせ知恵を絞り、汗を流さないと生産性はあがりません。「おひさまにしにし、金こいこい」では仕事の成果は上がらないのです。
私が社長に就任した当時のトリーカは決して悪くはないのですが、その認識を「停滞」と感じていたのを思い出してください。
だから「トリーカ・ルネッサンス」と称して再生を計りたかったのです。
永年の安定経営に慣れ、赤字体質に不感症になりつつある「停滞した職場」を復活再生するのは非常に困難なテーマでした。
幸か不幸か赤字の工場もありますが、黒字の工場もあってトリーカ全体としては黒字で来ました。だから工場の成果に関係なく、給与は支払われ、賞与もでました。
金来い来い~は結果的に実行され続けていたのです。
つまり多工場展開はトリーカの強みと弱みを合わせ持っていて、ある工場は助けられる状態が恒常化してしまうと言う事にもなってしまいます。
成果の出ない工場も出る工場も全社同一賃金の長い歴史があったのですね。
縫製企業における給与等の労務体制は企業経営の根幹です。
その体制が「年功序列的固定給」では國際的市場経済に対応は出来ないのです。

現在の皆さんがこの話を読まれたら「仕事の成果に関係の無い給与体制なんて、そりゃおかしい」と感じられると思います。
その通り昔は「おかしい体制」だったのです。
「魚が釣れなくとも、釣れてもみんな同じ給与」と言うのは平等と言う名の不公正です。
このような制度がいつまでも続くものではありません。
甘えを続けていては、いつか会社は運営できなくなります。
自分達が乗っているトリーカ丸は、不沈母艦ではなくて、「努力しないと沈む船」なのです。
トリーカ丸を沈めない様にして社員全員が生き残らないといけないのです。
「会社の繁栄を通じて、その上に社員の幸福を実現する」のです。
前回のトリーカの使命を思い起こして下さい。
「私達は、女性美支援のものづくりを通して、社会に貢献し、会社の繁栄と社員の幸福を追求します」とあります。
トリーカ丸を健全経営に運行して初めて安心した社員の幸福が構築されるのです。
トリーカはその意味で非常に社会主義的な会社かもしれません。
だから、社員が中心になる「人間主体企業」なのです。

「人事制度の抜本的改正」への取組みは、時間をかけて進められました。
中期方針の検討に続き、STM社やその後専門の中村好宏先生の指導を受けプロジェクトが発足します。平成6年(1994)4月です。
しかし、全社員が停滞を感じ危機を感じていたわけではありません。
経営者の認識や感覚のレベルを合わせ、管理者と危機感を共有して、具体的対応策を考え出さねばならないのです。
その前段階としてトリーカの人事・労務に関する基本的な考え方、つまり基本理念を統一する必要があります。
プロジェクトは「トリーカ人事理念」を作成し、社内運用が決定されました。
平成6年(1994)7月です。
上に出ていますが、もちろんトリーカ全事業所に掲示されているものですからみなさんご存知ですね
こうして「良くやった人が報われる」原則が明確になったのです。

「人事理念の制定」に続き、その考え方に基き「職能資格制度」が検討されます。
従来の年功序列賃金制度を脱皮し、能力主義を基調とする基本体系が整理されます。
新しい経験として、個人の能力を「評価・考課」して資格や職位があり、さらに賃金や賞与が決定されます。
併せて教育訓練の機会もあります。
新しい「トリーカ人事基準」の制定です。
すべては「良くやった人が報われる」考え方を基本に持っています。
「目標管理」も導入されます。
しかし、人間集団の急激な抜本改革は一夜にしてできるものではありません。
その後労働組合との粘り強い説明交渉を続け、ある時は交渉決裂したり、足並みに乱れが生じたりしながらも、理解をひろげて展開されます。
瀧田委員長やプロジェクトの皆さん、そして中村好宏先生のご苦心のおかげで全面運用は平成9年(1997)4月より開始されます。トリーカ第38期です。
創業以来37年間に及んだ人事労務制度は大きく転換したのです。
お日さまにしにし~が消滅した瞬間ですね。

この時の労務基準の整備があったからこそ、それをベースにして、さらにその後の
「トリーカ変革21」「大改革21」に到る労務環境の発展的大改革が可能となります。
それにしても急激な変化の日々でしたね瀧田さん!

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2006. 6. 14 高田

第76話  「国内存続の決断」

「国内縫製企業として生き残る決心をするまで」

高田社長体制になって、幹部社員はSTM社清水先生による会社経営の勉強を受けつつ、曲りなりにも中期経営方針書を発表しました。
当然その後の5年間を「トリーカはどの様な方向にすすむのか?」が書かれています。
第一次中期方針では、トリーカの現状の業態を「受注加工業」と認識し、そこから「企画加工業態への脱皮」を目指しています。
やはり「受注加工」のままでは付加価値が低く企業経営は苦しくなり、いつまでもワコールの傘の下から出ることはできず、自主独立の気概に乏しいと感じていたと思います。
だからより高い付加価値の期待できる業態への成長転換を計りたいと願っています。
でもこの願いはかなり困難なことだと言うことも解っていましたし、当面は受注加工業態そのものをより高度化し結果的に「高い生産性を上げる工場体制」を達成するべし、と述べています。

平成の始めの頃から、丁度世間では「バブルが崩壊」し、その認識が広まりつつある頃ですが、従来成長拡大一途であったワコールでも、やや売上の成長度が鈍ったのか、あるいは販売と生産能力のアンバランスからか、トリーカでは仕事量が不足気味になりました。
縫製工場にとって仕事量の減少は致命的危機です。
それまでほとんどその様な体験のない、十分に恵まれていたトリーカは、やや慌てます。
仕事が足らないと、現場に手空きが生じ、工場を休業し休日にするか、叉長期に及ぶ傾向があれば人員整理も必要です。
休日振替えから社内研修や、時には社内旅行などの対応と共に最悪の場合人員整理も一部行いました。パート、臨時社員の契約解除などです。
たいていの場合このような「生産調整策」を発表すると、不安が先行し生産意欲は減退し、管理者の予測以上に生産計画が大幅に遅延して来ます。
いわゆる「仕事の食い延ばし」が生ずるのです。
誰が調整しているわけではないのですが全体では遅れてくると言う現象で「神の手」が働いたとしか思えません。
数字で言えば非常に低い作業能率になってしまうわけです。
その結果3日間止めるべき工場が、止まる事無く次月の生産計画に繋がるわけですね。
悪い状況だと言う事は判っていても、「何とか繋がった」の思いの方が強く誰もそれを責める事無く過ぎる事もありました。人情が働いたのでしょうか?

縫製工場は生産性を上げるのはとても難しいことですが、下げる のは実に見事に下がります。社員一人ひとりの意志や集団の気分が大きく成果を変える現場なのです。だから余程コストの安い場所で操業するなら何とかなりま すが、労務費の高い地域では現場管理が上手く出来ないと縫製工場の経営は難しいのです。
90年代に入ると、中国生産のFL商品も大量に輸入されます。
紳士服、シャツ類、婦人ブラウス、コート、手袋、その他の商品が超低価格で販売されだします。「価格破壊」そのもので紳士服など大幅な価格破壊を皆さんも記憶されているでしょう。
FLはずいぶん海外価格に抵抗しました。
業界リーダーであるワコールさんの価格維持戦略が国内市場の乱れを防いだと思います。
もちろん極端に安い商品は入りましたが、他の紳士服などのような乱れは避けることが出来たと思います。これは今日に到るまでそうでありワコールの功績と言われています。
それでも加工賃の値上げ傾向はある時止まり、以後停滞から下落に変わります。
FLの加工賃は天井を打ち、今日に到るも下方修正か良くて維持ですね。
まさに國際価格であり,市場価格であり、競争原理が我々末端まで働いているのです。

このようなビジネス環境にあり「トリーカも海外進出するべきか?」と悩みます。
この問いかけは社長になって以来常に頭の片隅にあり続けました。
すでに「大連ルシアン」は順調に立ちあがっていました。
「あの時の宗安会長の意見に乗るべきだったか?」との悔いは残りました。
当時ワコールは早くから海外生産を手がけられ、アジア各地から中南米まで展開されていましたが、中国などアジアにおける工場進出をトリーカに誘われることはありませんでした。
ワコール自身の進出はあっても、トリーカにそこまでの危険は期待されていなかったのでしょう。
海外生産の難しさも充分経験されているからこそ、そうなのかも知れません。
ただしトリーカが敢えて行くと申せば協力はして頂けたとも思います。

時代は国際化、世界標準とか、世界最適生産、適地生産などが叫ばれます。
「トリーカも遅れては禍根を残すか?」とも思います。
一方国内工場は大ロット生産は海外に移り、加工賃水準は國際化を言われ厳しいビジネス環境のなかで、赤字工場が当然あります。
人材は不足し、生産性の向上や管理手法の開発、品質保証整備、社内組織、研修会、など内部強化はまだまだ多くの課題を残していました。
「海外工場を作ると、基本的には国内能力の移転と考えること」ワコールへの打診ではこのような反応でした。
「海外に工場を作ったらその分国内を減らせ」と言われるのです。
まだまだ国内工場が余るほど存在していた時代なのです。
トリーカはタクトを含めすでに現在と同数の国内工場配置、態勢となっていました。
「トリーカは海外移転するべきか?」
「その為には国内工場の閉鎖縮小は可能なのか?」
「工場閉鎖は許されるか?」
「トリーカの工場政策はどのようにあるべきか?」
「そもそもトリーカの存在は何の意味があるのか?」
「利益計上の為だけなら、縫製業以外にもっと効率の良い資産活用の方法はある」
「しかしそれでは利益は出ても、製品の生産は出来ないし、社員の職場はない」
「一方海外生産は、製品製造は出来ても日本人の雇用はない。現地人雇用貢献だ」
「トリーカは何処に存在の意義を持つべきか?」
このような疑問は以前から持っており、トリーカルネッサンス構想にも、人間主体企業にも、私としては考え方を整理していた積りです。
「トリーカは、ものづくりを通じて社会に貢献し、それ故に存在を許され、健全経営により会社の成長繁栄を計り、それを基盤に社員の幸福を支援する。
会社の存続願望も社員の幸福追求も同じ土俵に在る」
この様に思考を整理して、それがトリーカの存在使命や企業理念に纏められていると思います。
「海外進出の是非こそ、理念に従い判定すべきだろう」と思いました。

海外工場を行う決心も、それを行わない決心も同じ重さの経営判断でした。
国内工場として行うべき事はまだまだ多くある、だから海外進出は当面すべきでない」と言う確信を持っても、そのこと自体を全員の意思として共有しておくべきです。
集団経営体制は常に課題や対応は共有し対処の検討をする事が大切でした。
当然社内の役員や工場長会議のメンバーと相談します。
私の記憶では、平成7年(1995)1月京都新阪急ホテルにおける年度方針発表会の席上において、「国内企業として存続するか?」「海外進出に転換するか?」を問いかけ、皆さんの意見を聞き、「全員拍手の中に国内存続」を決定しました。
困難を承知で国内存続を決意した瞬間です。
これで私の海外工場への“揺らぎ”は終結致しました。
「トリーカは国内企業として存続を決心し、その為の困難を覚悟しています」と胸を張って応えられるのです。
決断の背景となるビジネス環境は日々変化します。当然その時々の判定が必要でしょう。
でもその時「何を根拠に経営の意思決定をするのか?」は明確にしておかねばなりません。だから理念や使命感が必要なのでしょう。

トリーカはこのような経過をたどって、「国内企業として存続」しています。
全員決断の時以来10年を経過しました。
時代は変わり国内生産は今どのような立場でしょうか?
国内縫製は求められているのでしょうか?
中国生産が本当に最適地生産でしょうか? 近い将来はどうでしょう?
得意先であるワコールの要望は何処にあるのでしょう?
常に経営環境は見直さないといけないのでしょうね。

現在トリーカは国内生産と共に、中国生産も200~300名規模で行われていますが、国内生産能力の移転ではありません。
竹中社長がいつも申されているように「国内生産の補完」として、幅広い生産メニューが求めれる時代に対応し、中国生産は開発されています。
国内生産では対応出来ないコストや能力も海外なら対応出来ます。
現在のトリーカは、竹中社長体制のもと「21世紀型トリーカ」への挑戦が続いています。
国内企業として存続する事は、並大抵のことではありません。
トリーカは人事労務改革に引き続き、外国人研修事業や社内ベンチャー体制を持ちながら、品質保証体制、ワコール連結会計体制、社内IT化、ISO9001体制整備、KES環境マネージメント対応、更にSOX企業改革法対応、等々あらゆる体制を取り入れ、なを革新を加えながら、「時代の要請」に応えつつ企業存続を計っています。
でも、我々はビジネス体です。将来、国内生産がどうしても存続出来ない背景や実体の時代がくれば考えなおさねばなりません。
社員の幸福追求をより広く考え、地球規模で社会貢献をテーマにすべき時が来るかもしれません。「日本人の職場発想」から「世界人の職場発想」に転換しなくてはならないかも知れないのです。
どうぞその時は皆さんが判断して決定してください。
どのようなビジネス環境であれそれに適応できる企業しか生き残れません。
トリーカ丸を沈めてはならないのです。
いつの時代も「適者生存の法則」は厳しくも正しいのです。
判断と対応は「時の政府」と言われる経営者のお役目ですね。

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2006. 6. 15 高田

第77話  「ニ度の大地震」

「阪神淡路地震、鳥取西部地震 ニ度の大地震を越えて生きるトリーカ!」



「国内企業として生き残ろう!」と言う国内存続を全員で決断した年次大会が平成7年1月13日の金曜日です。
つぎの日土曜日、手帳には「人事制度改革プロジェクト」があり、その夕方中村先生を囲んで新年会?を高槻のからさきで開いています。
「制度構築」を考えていた頃なのでしょう。プロジェクトは瀧田委員長を中心に進められていて、社長は新年会のみ参加した様です。
皆さんが「今年はまとめるぞ!」と意気込んでいた時ですね。
翌日の15日は成人の日ですが日曜日なので16日の月曜日は振替え休日です。
その間に、年次大会から人事PJを終えて工場長さんもそれぞれ工場に帰着されました。
運命に日は週明けの平成7年(1995)1月17日火曜日です。
午前5時46分と記録されています。
私は高槻市に住んでいますが当然ながら目覚めのころで「うつらうつら」の状態でした。突然、突き上げがあったように記憶していますが、はげしく家が揺れ、二階で布団の中に居た私は飛び起きました。
頭上の本箱が倒れないか支えようとしたものの、立ちあがる事無く事態をにらんでいたと思います。
意外に長く感じ下に降りて外に出たほうが良いかな?と思っているうちに納まりました。
「かなり強いぞ」と家内と話しながらテレビのスイッチを入れ、地震情報に画面が変わるのを待ったものです。
隣室に寝ていた娘は「地震があったん?」と寝ぼけながらも起きてきましたが、高槻はその程度でした。
当時息子が京都の鞍馬の方に下宿していましたので電話しましたが、本人は知らずに寝ていたようで、眠そうな返事でしたので「元気ならええわ」とすぐ受話器を置いたものです。電話も直後は普通通り通じましたね。
その後テレビは逐次状況を知らせました。
兵庫県は南部に赤い印が固まっています。一瞬兵庫工場が浮かびましたが震源地よりはかなり離れていて取り敢えずは安堵しました。
震度7とか始めての数字です。どうも神戸がやられているらしいと解りました。
余震もありましたが、当初から見ると小さいし、我が家はとりたてて被害はなさそうでした。
「ともかく会社に行くわ」と家内にいって、朝食もそこそこトリーカ本社に行きました。
いつも早い竹中専務はすでに出社しているし、やがて瀧田常務も出てきました。
「電話が繋がらない。みな話し中や」
当時は現在の携帯電話はまだありません。でも社長車に自動車電話がありました。
「あれでやろう」とやってみると兵庫工場に繋がりました。
「ともかく大丈夫です」と安心する。
岡山県の総社、美作も「揺れたが大丈夫」と確認できました。
あの時の自動車電話は助かりましたね。
その日は終日テレビは神戸の町を映し、時間の経過と共に見るたびに火事の範囲が広がり、新たな火事が発生していました。家が倒れ車がつぶれ、高速道路が車を載せて折れ曲がり、阪神電車の線路が歪んでいます。


その後の連絡で、「どうやら社員も大丈夫」とわかり一安心です。
トリーカの身内が被災してなければ取り敢えずほっとします。
あとは荷物の動きですが、これは仕方ありません。
ワコールとも連絡はつきましたが、特別な動きは要請されませんでした。
テレビの死傷者の数が発表毎に増えました。
「こりゃ死者1000人になるで~」。興味本意のようで申し訳ないのですがテレビを見て話したものです。
その日はまさに地獄絵の一日でした。
(うえの写真はポートアイランドの上空から神戸市内に向け、消防隊のへりから写された当日の遠景です)
テレビのニユースより、我々の現場実況チャンネルを回して見る方が先回りしました。
消防車は入れず燃えるに任す状況です。
なすすべもなく広い地域が火事になりました。
最終的に亡くなられた人が6400人余りの大惨事でした。
兵庫の絹巻さんの後日の話しでは、「神戸の方から焼き場を貸せ」と来た。
「死人を焼くにも焼けない」と家族を車に乗せて「焼いてくれ」と持って来ていたと言うむごいお話もありました。

トリーカはこの後の平成12年(2000)10月6日の「鳥取県西部地震」に遭遇しています。この時は米子工場など鳥取県西部が被災し、西伯町がほとんど震源地でした。
その年の6月高田会長・竹中社長体制に移行した当座です。
「今度はやられた!」私の第1印象でした。
阪神淡路の地震はかろうじて免れましたが今度は我々の本拠地です。
「やられた~」。
確か年次大会を翌日にひかえ、集合の工場長会議で大阪に集っていた午後1時半です。
テレビに見ると米子・境港辺りを中心にから岡山県西部を下り四国松山に到る、トリーカの工場所在陣地が赤色に印されています。震度は6以上のようです。
その頃は携帯電話もあり早速の確認が取れました。
表示する震度6にかかわらず、米子工場も、名和工場も大丈夫でした。
揺れの具合が良かったのか「パソコンやミシンなども異常なく、もちろん人身事故もありません」との事です。
中国人研修生も大丈夫です。
ただ、「社員のお家は心配で全員帰宅させます」と米子、大山工場は決定しました。
それぞれの工場長は会議を中座し帰鳥しました。
後日竹中社長、瀧田専務とお見舞いに走りましたが、米子・大山ともに新しい工場の建物だったから無事助かったようです。近所の民家には屋根瓦が落ち、青いビニールシートが沢山目立ちました。
もし、2年前で西伯工場のあの古い学校講堂の建物があればどうなっていたか知れません。瓦が落ち建物が倒壊し、近隣の人に被害が生じた恐れは多分にあります。
ふたつの建物を連結した大山工場の連結部分は5~6㎝ほどずれていました。
金田工務店さんにチェック願いましたが、どこの工場もも大丈夫でした。
烏取地区の工場建設は金田工務店さんにお世話になっていますが、その後の保守管理、何があろうと湯浅義男専務さんに無理なお願いばかり申し上げご苦労をおかけしました。この自信でもずいぶんご心配をおかけしたでしょう。
研修生達はずいぶん余震を怖がり3日ほど西伯町の体育館に一時退避しましたが、特別な問題はありませんでした。
結構美作工場や総社工場でも揺れを感じたようですが、松山のタクト野田を含め今回もトリーカは無事でした。
鳥取西部地震は震源地が近く、震度6~とか言われたにも関わらず、亡くなられた方はなかったし、火災も発生しませんでした。
屋根や建物は方々で壊れていましたが、神戸とは違いました。
揺れ方や発生時刻が昼間とかで2次災害が押えられたのでしょう。

台風とか地震、災害が発生すると「トリーカは大丈夫か?」と心配が走ります。
何と言ってもトリーカ、タクトで十数カ所の工場があり、1000人を超える社員が居ます。その中のどこの工場に災難があってもいけないし、社員が被災しても大変です。
多くの工場、多数の社員が居れば災害に遭う確率は高くなります。
西伯にしろ、伯太工場や名和工場にしろ統合新築があと1~2年遅れていたら、古い工場ですからどのような被災事故が生じていたかわかりません。
考えてみるとゾーッとします。まさにタッチの差で助かっています。

「トリーカは助かった!」「幸運だった」
このような幸運は作ろうと思って、意図して出来るものではないでしょう。
まさに「運」そのもののように感じます。
「天佑神助」の言葉そのものとおもいます。
これまでトリーカは神さまに助けられて無事に来ました。
恐らくわれわれみんなが真面目に生きているからでしょう。
ありがたいことです。
もし二度の地震でそれなりの被害を受けていたら、あるいは歴史が変わっていたかもしれません。恐らくよい方には変わっていなくて、工場閉鎖など良くない結果を生んでいるやも知れません。
やはり、きちんきちんと工場の整備はしておくものですね。
まして工場には中国人の若い研修生や実習生が沢山生活しています。
彼女達を含め日頃の危機管理体制や時々訓練や確認も大切です。
「災害は忘れた頃にやってくる」~本当にそうですよ。
私達は長い間には人知を超えた幸運にも恵まれ今日がある事に思いを馳せ、感謝の気持も持たねばならないと思うものです。
“神さまありがとう!”

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2006. 6. 16 高田

第78話  「宗安会長をおくる」

「宗安会長との永久のお別れ」



株式会社トリーカ元会長宗安正政相談役は、1000人社員の祈りも空しく、平成7年
10月4日、77年の生涯を終え永眠されました。
葬儀は、喪主は奥様の宗安正子様、宗安家及びトリーカ、タクト、ブリード三社との
合同葬儀として10月8日行われ1000人を越す多くの人が最後のお別れをしました。
以下に当時の資料の一部引用致します。

なお、宗安会長には同年10月5日にさかのぼり「勲五等瑞宝章」が特別叙勲発令され、12月15日鳥取県知事より奥様に伝達式が行われました。


――――――――――――――――――――――――――――――――――


①葬儀委員長 高田辰義トリーカ会長のお別れの言葉

謹んで故宗安正政元会長の御霊に対し、株式会社トリーカ、株式会社タクト、株式会社ブリードの三社、及びその社員を代表し、お別れの言葉を申し上げます。

「病気に対して逃げてはいけないよ」と常々申されていました会長ご自身の病魔との戦いは、短期間にして激しく、その逝かれることあまりに早く突然でありました。
あの頑健な会長がかくもにわかに他界され様とは、今もって誰もが信じれれぬことであります。
しかし今や私達はこの悲しむべき現実の前に等しくこうべをたれ、あなたの在りし日の面影を追うより外はないのであります。
宗安会長、あなたの大きな慈愛の傘の下にあって、私達はその赤子同様に安心しきった幸せな人生を今日まで送って参りました事、何よりも心からお礼を申し上げねばなりません。

「明治維新は20代の男達が成し遂げた。お前達もとしに不足はない」と若い私達に仕事を任せられ、「自由に思いきりやれ」と言うのが宗安流でありました。
仕事に迷い悩んで相談に行くと「レールから外れたら言ってやるから、それまで迷わず走れ」と、力強い励ましをいただき、そのお言葉を心の支えに迷いを捨て去り仕事に取組んだものであります。

あなたとの思い出は数限りなくあります。
工場への出張は車がほとんどで、その帰り道「年に一度 は・・・」と言って日本海に飛び込んだり、温泉地を通ればタオルも持たずに露天風呂に入ったり、おいしいうどん屋の道をわざわざ寄り道したりと、例え仕事 が厳しくとも、少しも疲れを感じることのない、あなたと一緒に居ることは、とても楽しい日々の連続でした。
そしてあなたは、日本国内での工場づくりから更に中国大連の地まで宗安人間集団を広げられました。
国内のトリーカ、タクト、ブリード三社の社員は今や合わせて1500人を越します。
この人達の幸せを守るべく、これからは私達が受継がねばなりません。
「会社経営で迷ったら社員の事を先ず考えよ」これがあなたの教えでした。
「もう少し努力すれば良かったと、そんな後悔をしないよう全力を出しきって事にあたれ」といつもあなたの背中が私達に語っておりました。
あなたの教えの数々を胸に、残されたこの大きな遺産を私達は必ずや守って参ります。
どうか天空より見守り、レールから外れる様なら、大きな声で叱って下さい。
これからは何時でも何処でもあなたのお声を聞くことが出来るような気がいたします。

宗安会長、今度お会いできたら「貝殻節」を歌い「同期の桜」を社歌に、また一緒に仕事をさせて下さい。
語り尽くせぬ思い出が浮かびますが、御霊の安らかならんことをお祈りし、心から尊敬と感謝を捧げ、謹んでお別れの言葉と致します。  合掌

平成7年10月8日      葬儀委員長  高田 辰義



②株式会社ワコール塚本幸一会長の弔辞

十月五日 山々の樹々に秋の風情が色づき始めた九州へ赴き、福岡、大分2箇所での講演を済ませ、東京へ移動して羽田空港へ降りたった私のもとに、あなたがお逝くなりになったとの悲しい報せが届きました。
瞬間わが耳を疑いましたが、私のからだには突然の静寂と衝撃がはしり、しばし呆然、人の命のはかなさに吾を忘れると同時に、ワコールにとって、いや日本の縫製業界にとって、偉大なそして大切な人を亡くした事が残念で大きな悲しみと寂しさが私の心を駆け抜けました。

振返れば、あなたと私の初めての出会いは、丁度今から30年前の昭和40年。
あなたが社長を勤められていた鳥取西村メリヤス株式会社がワコール製品の縫製会社として直接取引きが始った頃に遡ります。
当時苦境にあった鳥取西村メリヤスの社長を引きうけて、寝食を忘れて再建に努力され順調に事業を拡大、発展させてこられた経営手腕と力量が私の耳に伝わり、安心して任せられる縫製会社として、大きな信頼を寄せて参りました。
さらに、昭和47年には、鳥取、兵庫、岡山、の西村メリヤス三社を合併され、社名をトリーカと改称されると共に、その信頼関係は一層強固なものとなり、ワコールも積極的に資本参加をし、その絆は今日まで強く結ばれて参りました。
また、昭和55年にはワコールのウイング事業の専用工場として、株式会社タクトが設立され、さらに61年には株式会社ルシアンの専用工場として、タクトから分社して株式会社ブリードを設立するなど、その積極的且つ堅実な経営手腕は、つとに知られるところであります。
また、戦争体験から発する中国への想いも強く、平成4年には将来の中国の拠点とすべく、ブリードとルシアンの共同出資による「大連ルシアン」を設立し自ら董事長に就かれるなどその使命感は世界を見つめてのものでした。
あなたの功績は枚挙にいとまありませんが、縫製業界を代表する 工場経営にも定評があるところであります。常に各工場の近代化に努め、新鋭機械を導入し、品質の維持向上の基本とも言える素材への厳しいこだわりから、四 半世紀にも及ぶ旭化成工業株式会社との強固な信頼関係を築かれ、名実ともにわが国最高の高技術・高品質と全国一の生産量を誇るグループの供給基地を作り上 げた功績は業界の驚異とされている点であります。

現在トリーカが西日本で展開されている16工場は全て,県や市町村の要請によるもので身障者の方々を含めての雇用促進は大きな社会貢献活動と申し上げても過言ではありません。
単に生産性の追及のみならず,働く人を大切にする経営理念は、 福利厚生施設を充実させ、社員の健康、教養を高める手段を整備し、更には,働く母親のため福祉法人「吉備の国福祉会みどり保育園」を設置され、最後までそ の理事長を務められた点も大いに称賛されなければなりません。

あなたと私は、あなたが二歳先輩とは言え同じ大正生まれ、岡山と滋賀と地域は異なっても、共に旧制の商業学校に学び,兵役も中支および南方戦線の過酷な戦いを経験するなど、同じ様な境遇に身を置いた者同士の何とも言いようのない親近感や連帯感を常に抱いていました。
毎年行われるトリーカの定時株主総会には、京都商工会議所の会頭を努めていた超多忙な時期でさえも、予定をやりくりして出席する様心がけていたのも、あなたの人柄や魅力に惹かれ、あなたとの出会いを楽しみにする気持がそうさせたのかもしれません。
ある時は倉敷に松茸狩りに行き、ある時は山陰の温泉の湯煙の中にご一緒した行く先々で酒を酌み交わし、昔ばなしに花を咲かせ、いつまでも青春の心を持ち続けたいと語り合った、大正生まれ同士の心意気と裸の付き合いが昨日の事の様に、今鮮やかに思い出されます。
隠岐の島へ行ったときも悪天候で船も飛行機も欠航し、仕方なく朝から酒を酌み交わして、お互いの事業や夢を語り合いました。
中国上海の雅楽工場へ一緒に出向いた時には、上海駅のホームで戦争時の思い出に浸り、感極まって共に涙したことも懐かしい思い出のひとつであります。

あなたは今年喜寿を迎えられたばかり。
大正、昭和、平成と続く風雪の時代のうねりの中を生き抜いて来られたとは言え、まだまだ若く、もっと長く元気に活躍してもらいたかった方です。
聞く所によりますと、来年の春には業界振興の功績が評価され、国家褒章を受けられる運びだったとのこと、返すがえすも残念でたまりません。

余力を残しながらのご逝去はあなたご自身残念な想いだと思いますが、これも人の世のさだめ。私自身も心残りで寂しさがつのります。
ただあなたの残された功績と教訓の数々は、高田社長をはじめトリーカならびにグループ企業の社員の心に刻まれ,受継がれ、さらに大きな花を咲かせることでしょう。

永遠の眠りにつかれた、トリーカ元会長宗安正政殿に、心からのご冥福をお祈りし、
謹んでお別れの言葉を捧げます。   合掌

平成7年10月8日
株式会社ワコール
代表取締役 会長   塚本 幸一

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2006. 6. 19 高田

第79話  「宗安会長をおくる~追伸」

「もう一日宗安会長の思い出に浸る。」

前回は「宗安会長をおくる」でした。
塚本会長の弔辞も小生の別れの言葉も今読み返しますと涙目になるような思い出の画面でした。まさに語り尽くせない偉大な会長だったのですが、お許しをねがって、もう一回、本日も宗安会長の思い出に浸りたいと思います。
何と言っても、「トリーカ昔物語」は実質「宗安物語」になってしまいますからね。
あのとき、合同葬儀を終えて、特に生前親しくされていた仕事上のお付き合いの深かったと思われる方に、葬儀参列のお礼状を出しています。
当日は詳しいおはなしも出来なくて失礼していたもので、前後の状況も会わせ少し報告しています。
現在の私達も記憶に残すべく、このお礼状を転載しますので、経緯を読みとっていただくと幸せです。

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殿

過日弊社宗安元会長の葬儀式には、ご丁寧なるご厚志、ご参列を賜り誠にありがとうございました。
当日は何かと不行き届き、手落ちなことばかりで失礼なことが多々あったと存じますが、お許し下さいます様お願い申し上げます。

さまざまな思い出をお持ちでありましょう懐かしいお方々に、お見送りいただいた宗安会長は、さぞ喜んだことと思いますし、私どもも大変うれしく涙のこぼれるありがたさでございました。
皆様方には仕事にも遊びにも、その時々の出会いに深い絆があった事と拝察申し上げ、残された者としましてご交誼に心から深い感謝と敬意を申し上げる次第でございます。

平成3年取締役会長を退任し、相談役に(同時に私が社長に)就任されて以来、ほぼ毎日出社はされますが、仕事に関しては、私から相談を持ち掛けぬ限り、ご自分から何かに申される事は一切無く、見事に任せていただきました。
要所要所に報告なり、相談なり、をお聞きいただきながら一方で、トリーカのみならず
タクト、ブリード、さらにライオンズクラブ関係など何かとお忙しくお元気な日々でございました。
特に、得意先様との懇親会や会社管理者との会合など昔どおり賑やかに盛り上げていただきました。
ところが昨年(平成6年)11月の末、「高田君、どうも胃に腫瘍があるらしい、いっそ手術するわ」と言われて入院し、結果胃は全部摘出されましたが,年末には退院され、今年のお正月はお家で迎えられました。
春の恒例新年会は欠席されましたが、五月の定時株主総会は玉造温泉まで出かけられ、「ビールより酒がよい」と結構2~3本は楽しまれました。
この時初めて奥様にもご同伴願って、我々はゴルフに会長様たちは三瓶山観光に足を伸ばされるなど徐々に健康は回復されているとお見受け致していました。
昨年末退院されてのち2回ほど経過検査と申されて入院されていましたが、順調だとのことでした。
ただ、お食事の量が進まぬ事は気にされていましたが、会社への通勤は15~20分健康の為と、歩いておられました。
八月になると、「暑い時は夏休み」と言われてお休みでしたが、9月1日にはまだ暑いのに律儀に出社されましたが、突然9月18日に入院されました。
一週間くらいで安定するからと奥様から連絡があり、やや気には なりましたが、従来の検査入退院の例もあり、お見舞いのタイミングを計りつつ待っておりましたところ、九月の末頃、ご様態が余り良くないとの報せで駆けつ けた時は発熱との戦いでほとんどお話も出来ませんでした。
手は握り返してもらえるものの,苦しい息の下「ありがとう」のお声があり、今思えば私に話し掛けていただいた最後のお言葉でした。
それから数日間、トリーカ、タクト,ブリード三社の1500人の社員が祈りを込めた
千羽鶴はお目に見えたやら、心の目で見ていただいたか定かではありません。

入院以来奥様は毎日泊まり込みとお見受けしましたし、三人のお嬢さん方も、入れ替わり十二分な看護を尽くされていました。
10月4日夜中11時過ぎ、ご最期は奥様とお嬢様方がベッドの周りで、「お父さんの好きだった歌をうたおう」と貝殻節や同期の桜などうたいつつ、会長の手や足を撫で擦るその中で静かに息を引き取られたとうかがいました。
夫婦や家族のあり方、見送り方など最期まで我々に模範を示される「宗安学校」でございました。
本日会社の会長室の机を見ますと、カロリ-メイト(ビスケット)が開封されてひと函残っておりました。進まぬ食事の量にご苦心されていた事と、胸の締めつけられるものがございました。

宗安会長は約4年間の兵役の後、昭和19年除隊され、昭和二十年代は西村メリヤスに居られ、昭和32年東西メリヤス工業創立と共に担当され,昭和39年10月西村メリヤス経営破綻を期に、鳥取西村メリヤスの再建を引き受けられました。
その後の10年間は心身ともにご苦労の連続だったと推察致しますが、この頃のことは先輩の皆様方の方がはるかに詳しくご存知の事で、さまざまなご協力を頂戴したことと存じます。ワコール様との取引き拡大と共に昭和47年社名をトリーカと改称したあたりからは、落ち着いた経営発展期となり、充実されていたと思います。
昭和55年タクト設立、昭和61年ブリード設立と発展的分社を行い、更に平成4年
念願の中国に大連ルシアンを設立されました。
この4社及び関連会社を含め今や2000人の「宗安企業集団」が構築されており,それぞれ健全経営がなされていると言う偉大な業容でございます。

残された私どもも、この大遺産を存続発展させるべく努力致す覚悟でございます。
何卒倍旧のご指導ご鞭撻をお願い申し上げます。
本来ならお伺いいたし、御礼を申し上げご指導を願うべきところながら取り急ぎ書中をもって失礼の段お許し下さい。                  敬具

平成7年10月   株式会社トリーカ社長
合同葬儀委員長     高 田 辰 義

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かくしてトリーカは絶対的存在であった宗安会長をお送りしました。
皆さんの工場にもお写真がかかっていますが、宗安会長と言う方は、語り尽くせるお方ではありませんが、おぼろげにトリーカの大恩人のお姿が見えたものと思います。
世界中では50億人以上の人間が生き、トリーカの長い歴史もその中にあります。
こんにちトリーカと言う集団に属して私達は生きていますが、この船は様々な経過をたどって今日を迎えています。
皆さんとは不思議なご縁で同じトリーカ丸に乗り合わせ、一緒に生きているのです。
現在があるのは過去の歴史が在って初めて今日が存在します。
歴史の中で宗安会長と言うスーパースター超人が頑張って築いて下さったお陰で、今日のトリーカがあり、われわれが居ます。
在り難いことですね。

宗安会長をお送りして10年余り、私達はご遺志に添っているのでしょうか?
私自身は思えば思うほど内心じくじたるものもあります。
トリコット工場もタクトもブリードも発展的解消と思って戴けたでしょうか?
中国人研修生が300人近くなり、日本人は少なくなりました。
宗安会長にして見れば、きっとご不満のことも多いと思います。
でも、残された我々はその時代に適応しながら、精一杯努力し、自分達の力に応じて
生きるしか出来ません。
トリーカはこれからもどのような歴史が積み上げられるのでしょうか?
はるか天空より見守って戴いているでありましょう宗安会長を始め先輩諸氏に、トリーカのご加護を賜ります様せつに祈り願うるのみです。
合掌

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2006. 6. 20 高田

第80話  「外国人研修事業~事始め」

「中国人研修生受入れ事業をはじめるきっかけ!」

宗安会長をお送りし、主だったところに会葬御礼に出向きます。
日本輸出品工業協同組合連合会(輸縫連)は、トリーカが鳥取県で加入している縫製業者の組合です。その烏取の組合は宗安理事長の時代もあり、その後は高田理事長からいまは竹中理事長に引継ぎトリーカにとってとても関係の深い組合です。
この組合は各県単位に結成されその本部的なものが大阪にあり、以前から一般に「輸縫連」と呼ばれていたのです。

その昔、昭和二十年代から対米輸出を行うにはクォータと呼ばれる割当てと申しますか、枠取りが必要でした。
アメリカの輸入規制ですね。
そのクォータの配分は商社が握っていた様ですが、その権限を縫製業界自身で得る為に業界が団結し結成したものでしょう。
以前「シエルブラウス」とか「ドルブラウス」の輸出縫製品のお話をいたしましたが、その為にこの枠取りが必要だったのです。
その後この繊維製品に関するアメリカの輸入規制は、沖縄の本土復帰返還交渉に利用されます。繊維製品輸入制限案を日本が受入れるなら、沖縄を返還しよう~となったのです。繊維製品の輸出を大幅に押えることは日本の縫製業界を犠牲にする事です。
昭和47年(1972)5月佐藤栄作首相の時ですね。
「糸を売って縄を買う」「繊維業界を売って、沖縄を買い取る」と言う政治取引きです。
輸出が止まれば倒産したり、仕事が無くなって設備が不要になります。また内緒で作らない様一定のミシンを破砕すべし~となりました。
この時輸縫連は民間窓口として、対米交渉も含め日本政府とも厳しい交渉を行いました。
最終的に政府方針が進められ、縫製業界には政府の補助金が出ます。
トリーカも輸出を止める代りに、ミシンを放出破砕したり、一台一台を登録し組合管理になりました。
だから内地商品に力点を移し、FL商品が増えた原因にもなりますね。
そんなことで、鳥取県の組合には以前から加入し、宗安社長も理事長として活躍されました。蛇足ながら、この理事長活動も叙勲の業績に大きく取り上げられています。

前置きが長くなりましたが、大阪の輸縫連本部に会葬御礼をもうしあげる為高田,瀧田が出向きました。
本部には北野一三専務理事がおられます。
一通りの挨拶の後「高田さん大変やったなぁ~。宗安さんも組合では良く発言してもらったんや」と話されます。
あれこれ雑談の中に「人手が集らなくて苦労します」と言うと、当時輸縫連が進めていた研修事業の話しが出ます。
「研修生を受入れたらどうや?」「今なら岡山に頼んでやるで」と北野専務の意見です。
輸縫連指導の研修生受入れ事業は平成4年2月兵庫県組合が25名を受入れたのを皮切りに、その後岡山、広島、徳島、石川等に毎年受入れが実行されていました。

当時トリーカの総社工場には、ブラジルなどから日系人が社員で入国していました。
岡山の水島地区の三菱自動車に来た社員の奥さんなどですね、
私は中国に興味は持っていて、以前、宗安会長に相談した事はありました。その時は「高田君中国人が集団で生活したら大変や。日本人の生活とは全然違うんや、日本に受入れるより中国に工場を出した方がええ」と言われ、それもそうだろうなと思っていたのです。
ただ、「国内企業としての存続」「現状工場を存続させねばならない」の思いがあり、この側面から考えると、会長の中国進出には乗っていかれなかったのです。
でも今となっては自分達で決断しなければなりません。

会長の葬儀のお礼に訪れて、そこで出て来た話は「会長のお導きかもしれんわなぁ~」と思いは進みます。
北野専務はその場で岡山の三宅敏夫理事長に電話されました。
「そりゃ~トリーカさんなら大歓迎じゃー」と三宅理事長は岡山弁で言われたようです。
私と瀧田常務は「持ちかえって早急に検討します」と応えたものです。
「行くんやったら、年明け早々やで。本番の選抜はもう終わっているけど、追加がきくやろう」との事です。
私は前向きに考えました。
「瀧田さんこの話乗ろうや、何かやらないかんし、決心するチャンスや!」
早速経営会議を召集したと思います。
結論は「ともかく総社に4人受入れて見よう!」となります。
「1月に高田、絹巻が選抜に行く」~ここまで経営会議で決まりました。
総社は絹巻久雄工場長で、彼は岡山組合の研修生受入れを知っていてその様子を良く耳にしており、受け入れに積極的な意見を持っていました。
担当工場長が積極的な事は重要です。
早速「北野専務、お願いします」と電話した。
「岡山の組合に加入せなあかんな、そこからやな」となります。

研修制度のイロハから勉強でした。
その頃は団体監理型受入れは、研修1年、技能実習1年の計2年間でした。
宿舎のこと、日本語教育の事、組合加入のお願いやら研修部会加入、JITUCO加入、
自分達のパスポート確認、ビザ申請、各種受入れ申請書類作成 等々知らない事ばかりです。私は組合との付き合い方も知りません。
瀧田さんが組合業務には経験もあり頼もしく思へたものです。
今では当たり前の事が全て,未経験です。
輸縫連の北野専務は非常に協力して頂きました。
恐らく通常の運びなら次年度からしか参加出来なかったでしょう。
岡山の三宅理事長も全面的に了解し、協力していただけました。
何事のよらず最初の最初は難しいものでしょうが、ともかく皆さんに応援していただけるのはありがたいことです。

平成8年(1996)1月、先行している北野専務を追って、高田・絹巻の二人は、団体旅行以外は初めてのような海外に関西空港から出発したのです。
上海で北野専務や外経公司の李漁さんに迎えられました。
「中国上海外経(集団)有限公司」の李漁さんには、この時初めてお会いするのですが、それから後今日までトリーカの研修生受入れ事業のお世話を戴く事となります。
この時黄璧部長にもお会いしたし、新入生の董伊青さん、等にお会いしているのですが皆さんとはそれ以来長いお付き合いとなる訳です。
新錦江大酒店に泊まり確か次の日岡山県が受入れしている「張家港」に向かいます。
ホテルで富田縫製の藤井専務と言う方と合流し選抜に走ります。
富田縫製は既に現地に進出されているのですが、受入れもされた様です。
富田縫製の中国顧問のような立場で、日本語も話せる謝賢秋と言う年配の方も一緒で、張家港に行くマイクロバスで隣り合った席になって、この方とも今もって年賀状は続いています。当時既に退職されていた方ですから今はかなりのお年になられたと思います。
私はそのころ最新のビデオを持って行ったのですが、偶然謝さんも同じ型のビデををお持ちで、テープが手に入りにくいとお聞きし、何本か差し上げて仲良くなった思い出があります。

上海から張家港は途中まで高速道路ですが、その後は普通道でしたが、まだ車が少なく時速100キロ近くで走るのには驚きました。
岡山県は張家港専門で三宅理事長は現地に工場も進出されている様子でした。
港に案内されましたが神戸港と同じ様に大きな貨物船が停泊していましたが、そこが海でなく長江と呼ばれる揚子江であると聞かされ感心したり納得したりしたものです。
海から300km上流でも瀬戸内海の様で対岸は見えません。さすが中国を感じました。
泊まったホテルは新しい建物で場所も郊外に新しく出来た町との事でした。
清潔な町を目指しているとかで、道路をほうきで掃いて掃除しているのも、最初は驚きました。そんな町でもホテルから見下ろすと朝は自転車の人達のものすごい流れが途切れる事無く続くのにこれまた驚いたものです。
選抜は4名ですから、絹巻さんと行いました。
50名ほど候補者が用意されていて、「ずいぶん多い人を用意してくれてるなあ」と思いつつ選んでいたら、残りから北野専務が10人ほど選抜されたようです。
北野専務は「代理選抜」を依頼されていた様ですが、我々を先行させて下さったのです。視力の確認やら、クレペリン、「器用さテスト」も行いました。
李さんが付き添ってくれて「用意開始」とか通訳してくれました。
横から見ていても落ち着いててきぱきした、賢そうな人は○が付きます。
ポラロイドカメラも使いました。
我々が4名を決め補欠を2名決めるのに誰にしようか苦労していた時、隣りでは北野専務が早々と十名の選抜を済まされていましたが、どうして選抜されたのでしょう。

夜の歓迎会ははじめての体験で、「高田さん挨拶をどうぞ」とか北野専務に言われ、要領がわからず遠慮していたら、そのままになりましたが、後で思えばお恥ずかしい次第でした。
私の従兄弟に良く似た人が居て「兄弟や」と宴会で盛り上がり、大きなやかんの詔興酒を飲み過ぎ、メガネを壊した苦い経験もありました。
この時選んだ4名はその年の6月に入国したと思います。
いろいろ有りましたが良く頑張ってくれました。
絹巻さんが公私ともに全面的に面倒を見て、おかげで上手く行ったのです。
お盆休みもお正月も自宅に連れ帰り奥さん共々で、招待してました。
岡山の組合にも加盟し、ここでも絹巻さんの明るく、てきぱきした動きは皆さんから評価され、三宅理事長から「絹巻さんは良くやってくれる」と誉められたものです。
今まで地域の同業の方と付き合う必要のなかったトリーカにとって、組合活動は新しい経験でしたね。
我々も総社に行くときは、例え少しでもと、ラーメンをお土産に持って行ったりと、当初はサービスしてしまいました。
研修生に賞与まで出した時代ですから、ずいぶん大きく変わったものですね。
工場の現場ではもっともっと苦労されたのでしょうが、全体的に見て「研修生はええなあ」となりました。「やっていけるで~」と自信がつきます。
直ぐに兵庫県も参加しようとなって、兵庫の組合にも加盟します。
平成8年3月に加盟しています。ここも絹巻工場長の工場でしたから決心は早かったですね。

こうしてトリーカの研修生受入れ事業はスタートします。
取っ掛かりは宗安会長の会葬御礼に訪ねた時の北野専務のお勧めの一言です。
この場面がなかったら、すぐには研修事業も開始されてないでしょう。
ワコールさんは現在も受入れされてません。
ワコールを見てあれこれ迷っていたら受入れない道も有ったでしょう。
人の出会いも、企業の運命も、神さまはこうして決められるのでしょうか?

総社工場に平成8年(1996)初めて4人の研修生を受入れて、今年で丁度10年です。
その後鳥取にも広がりますが、でも当初は様子を見ながらでしたね。
受入れ枠のこともあり、スムーズには広がりませんでしたが、ベンチャーやら他社のキャンセル引き受け、経営破綻企業の研修生引き受け、そして喧嘩や鬼が出たり、研修事業にどっぷり浸かったトリーカでした。
それが今や全社に広がりトリーカグループ全体で約300名が滞在しています。
研修生受入れ事業は、トリーカの経営にも大きく影響を与えますし,それだけ現場は管理が大変でしょうが、縫製事業を続ける限り「この外に行く道はなし」と覚悟を決めて、「手間もお金もかける決心」ですね。
日本人社員の感覚も國際化したでしょう。
立派な「草の根國際貢献企業」ですよ!!!。

みなさん本当にごくろうさまです。

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